ということで読み進めていく。
起きている間は私たちは明晰的 explicitly、ないしは被明晰的 implicitly に思考を進行させる。前者は意識的に、後者は非意識的nonconsciousに、とある。このnonconscious って、無意識unconsciousの間違いではないかと思うが、この表現は実は一部の理論家には使われているということであり、フロイトの力動的、つまり葛藤や抑圧などが働く無意識の概念と区別するという意味があるという。うん、私もこの区別はいいと思う。「非意識」という訳語も問題ないであろう。フォサーギ先生は夢においてもこの二つのプロセスが働くという。
もう一つ彼が区別しているのが、次の二つのモードだ。一つは感覚的イメージ的、もう一つは言語的なモードであるという。これも睡眠、覚醒時の両方にかかわってくる。(なんか右脳的、左脳的、とでもいいたそうな。でもまだそこまではフォサーギ先生は言っていない。)前者は情緒的な内容を含む。ここでフォサーギ先生が、「情報を構成し、情緒を安定させる」と二つの要素を常に夢の機能として挙げている理由がわかる。一つは言語的、もう一つはイメージ的なう要素を取り上げているからだ。ここまでは特に問題ないぞ。さて次に彼が言っているのは、覚醒時と睡眠時の思考の共通点を挙げているのだが、ここらあたりから問題が出てくる。
1.両方においてデータを記憶に向かってプロセスし、構成し、統合し、概して適応的な役割をする。
2.
両方ともその内容は単純なものから複雑なものまで幅がある。
3.
両方とも感情を調節する。
4.
REMは睡眠時も、覚醒時にも起きる(後者は白日夢など)
どうだろうか?ウーン。例えば1について。そりゃそうだが、例えば夢の記憶の仕方がこれだけ脆いことは、むしろ両者の違いは何か、ということである。2は当たり前の話。3はどうだろうか?これも当たり前と言えば当たり前。しかし覚醒時に感情の調節が常に起きているかは疑問だろう。覚醒時に感情が揺さぶられる思考もいくらでもある。それを一言で「感情を調節している」と言い切るとしたら、同じくらいの蓋然性で夢を語っていることになりはしないか? 私はむしろ3を言い換えて、夢にも覚醒時の思考にも、感情を乱す要素も、安定性を回復させる要素も二つともあるよ、というのがまだいいような気がする。