2014年3月16日日曜日

続・解離の治療論(2)

私は池谷裕二先生のファンであるが、彼の好著『単純な脳、複雑な「私」』 の最終章は興味深い。これはネットにも公開されているので、私も引用させていただこう。 「幽体離脱を生じさせる脳部位がある」というタイトルだ。 結局池谷先生が伝えているのは、脳の部位にはそこで人間の心のある重要な部分があり、それが自分を外側から俯瞰するという能力である。もともと人には自分を客観視する力がある。「自分の立ち位置を知る」という言い方があるが、全体の中で自分はどのような立場にあるかを知ることは社会生活を送る上で極めて重要だ。しかしそれが、脳の一部分の刺激で、極めて具体的に、リアルに生じるという点が興味深い。
解離の臨床という立場から、私は幽体離脱という現象に非常に興味を持ってきた。乖離傾向の強い人にしばしばこの体験が生じる。入眠時、出眠時にこの体験をする人もいる。気がついたら天井板が目の前にすぐ見えていた、という体験もあれば、天井から自分を見下ろしていたという体験もある。これだけポピュラーだということは、人間には(そしておそらく動物には)一種の監視カメラの装置が実在していて、通常は意識されないながらも自分の姿をモニターしている機構があるのだろう。私はよくシャツの襟をジャケットの外に出しっぱなしで出勤するが(コートを上に羽織った状態で出勤するので、神さんも気がつかない)、何人か患者さんとあったあとにふと首に手をやり、「襟が出ている!」ことにハッと気がつく。あるいは地下鉄で通勤していて、独り言が少し大きめに出てしまって、またまたハッとする。ドアが閉まる間際に突進してくる人を見て、「あっ!」などどいってしまっては、気恥ずかしい思いをする。これはいずれもモニター画面に移し替えて「まずい、おかしなオジさんに見られている」と体験することだ。
角回を刺激すると、幽体離脱が「実際に起きる」とはどういうことか?それはあたかも心の中に思い浮かべているシーンやアイデアが幻覚や妄想となって体験されるような体験と考えることができる。言い換えれば、私たちが「自分の立ち位置を知っている」ときは、幽体離脱を、「心の中で行っている」ということなのだろう。もう少し言い狩れば、幽体離脱を、知覚的にではなく、表象として体験しているということでもある。
ということで以下は、池谷先生の本文から。
幽体離脱を生じさせる脳部位がある 
脳を直接に電気刺激して活性化させる実験がある。刺激すると、刺激場所に応じていろいろな反応が起こる。たとえば、運動野を刺激すると、自分の意志とは関係なく、腕が勝手に上がったり、足を蹴ったりする。視覚野や体性感覚野を刺激すると、色が見えたり、ほおに触られた感じがしたりする。そうやって、刺激によっていろいろな現象が生じるのだけど、なかには信じられない現象が起こることがある。たとえば、これは一昨年(編集部注・講演時点から)に試された脳部位だけど、頭頂葉と後頭葉の境界にある角回(かくかい)という部位。この角回を刺激されるとゾワゾワゾワ~と感じる。たとえば1人で夜の墓地を歩いていると、寒気がすることない?──あります! それそれ、あんな感じらしい。角回を刺激すると、自分のすぐ後ろに、背後霊のようにだれかがベターッとくっついている感じがするようなの。うわーっ、だれかにつけられている。だれかに見られている……強烈な恐怖を感じるんだって。でもね、その背後霊を丁寧に調べてみると、自分が右手を上げると、その人も右手を上げるし、左足を上げてみると、その人も左足を上げる。座っていると、その人も背後で座っていることがわかる。これで理解できるよね。そう、実は、背後にいる人間は、ほかならぬ自分自身だ。要するに、「心」は必ずしも身体と同じ場所にいるわけではないということ。僕らの魂は身体を離れうるんだ。この例では、頭頂葉を刺激すると、身体だけが後方にワープする。この実験で興味深いことは、その「ゾワゾワする」という感覚について尋ねてみると、背後の〝他者〟に襲われそうな危機感を覚えているという点だ。これはちょうど統合失調症の強迫観念に似ている。これで驚いてはいけない。身体と魂の関係については、さらに仰天するような刺激実験がある。先ほどの実験と同様に角回を刺激する。ベッドに横になっている人の右脳の角回を刺激するんだ。すると何が起こったか。刺激された人によれば「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天井のすぐ下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。これは何だ?──幽体離脱。その通り。幽体離脱だね。専門的には「体外離脱体験」と言う。心が身体の外にワープして、宙に浮かぶといわけ。幽体離脱なんていうと、オカルトというか、スピリチュアルというか、そんな非科学的な雰囲気があるでしょ。でもね、刺激すると幽体離脱を生じさせる脳部位が実際にあるんだ。つまり、脳は幽体離脱を生み出すための回路を用意している。たしかに、幽体離脱はそれほど珍しい現象ではない。人口の3割ぐらいは経験すると言われている。ただし、起こったとしても一生に1回程度。そのぐらい頻度が低い現象なんだ。だから科学の対象になりにくい。だってさ、幽体離脱の研究がしたいと思ったら、いつだれに生じるかもわからない幽体離脱をじっと待ってないといけないわけでしょ。だから現実には実験にならないんだ。つまり、研究の対象としては不向きなのね。でも、研究できないからといって、それは「ない」という意味じゃないよね。現に幽体離脱は実在する脳の現象だ。それが今や装置を使って脳を刺激すれば、いつでも幽体離脱を人工的に起こせるようになった。他人の視点から自分を眺められないと、人間的に成長できないも、幽体離脱の能力はそんなに奇異なものだろうか? だって、幽体離脱とは、自分を外から見るということでしょ。サッカーをやってる人だったらわかるよね。サッカーの上手な人は試合中、ピッチの上空から自分のプレイが見えると言うじゃない。あれも広い意味での幽体離脱だよね。俯瞰的な視点で自分を眺めることができるから、巧みなプレイが可能になる。サッカーに限らず、優れたスポーツ選手は卓越した幽体離脱の能力を持っている人が多いと思う。スポーツ選手だけではなくて、僕らにもあるはずだよね。たとえば、何かを行おうと思ったとき、障害や困難にぶつかったり、失敗したりする。そういうときには反省するでしょう。どうしてうまくいかないのだろうとか。あるいは自分の欠点は何だろうとか。それから女の人だったら、「私は他人からどんなふうに見えているかしら」と考えながら、お洒落や化粧をする。こうした感覚は一種の幽体離脱だと言っていい。自分自身を自分の身体の外側から客観視しているからね。他人の視点から自分を眺めることができないと、僕らは人間的に成長できない。自分の悪いところに気づくのも、嫌な性格を直すのも、あくまでも「他人の目から見たら、俺のこういう部分は嫌われるな」と気づいて、はじめて修正できる。だから僕は、幽体離脱の能力は、ヒトの社会性を生むために必要な能力の一部だと考えている。いずれにしても、幽体離脱の神経回路がヒトの脳に備わっていることは、実験的にも確かだ。そして僕は、この幽体離脱の能力も、「前適応」の例じゃないかと思っているの。だって、動物たちが他者の視点で自分を省るなどということはたぶんしないでしょ。おそらく動物たちは、この回路を「他者のモニター」に使っていたのではないだろうか。たとえば、視野の中に何か動く物体が見えたら、それが動物であるかどうか、そして、それが自分に対して好意を持っているのか、あるいは食欲の対象として見ているのかを判断することは重要だよね。現に、野生動物たちはこうした判断を行いながら生き延びている。だから動物に「他者の存在」や「他者の意図」をモニターする脳回路が組み込まれていることは間違いない。他者を見る能力は、高等な霊長類になると、行動の模倣、つまり「マネ」をするという能力に進化する。ニホンザルはあまりマネをしないんだけれども、オランウータンはマネをする動物として知られている。たとえば動物園にいるオランウータンなんか、自分で檻のカギを開けて出ていく。並んでいるカギの中から、いつも飼育員が使っているカギを探し当てて、自分で開けて脱出できる。つまり、飼育員を見ていて、そのマネするわけだ。野生のオランウータンだと、現地人のカヌーを漕いで川を渡ったという記録もある。他人の眼差しを内面化できるのが人間模倣の能力がある動物は、環境への適応能力が高いし、社会を形成できる。しかし、マネをするという行為はかなり高等な能力だ。他人のやっていることをただ眺めるだけではダメで、その行動を理解して、さらに自分の行動へと転写する必要がある。鏡に映すように自分の体で実現する能力がないとマネはできないよね。ヒトの場合はさらに、マネだけでなく、自分を他人の視点に置き換えて自分を眺めることができる。まあ、サルでも鏡に映った自分の姿を「自分」だと認識できるから、自分を客観視できてはいるんだろうけど、でも、ヒトは鏡を用いなくても自分の視点を体外に置くことができる。そして、その能力を「自己修正」に使っている。他人から見たら私の欠点ってこういうところだなとか、クラスメイトに比べて自分が苦手とする科目はこれだなとか、そんなふうに一歩引いてものを眺める。そういう自分に自分を重ねる「心」の階層化は、長い進化の過程で脳回路に刻まれた他者モニター能力の転用だろう。〈了〉

著者池谷裕二(いけがや・ゆうじ)