2014年1月27日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(9)


8.治療論に向けて
これまでいくつかのテーマについて論じてきたが、この最後の章は治療論的な意味合いについて述べておこう。「私達は膨らんだ自己愛への侵襲により生じる怒り、恥に対する防衛としての怒りについて理解することで、どのように日常生活を生きやすくできるのであろうか?、つまり二次的な感情としての怒りを昇華することができるだろうか?」である。この問題は私達が他人と良好な関係を損なわず、しかも余計なフラストレーションを抱えずに生きていくためにきわめて重要なことである。
これについて、私は過去にある論文で次のような書き方をした。
[自己愛に基づく怒りを飼いならす方法については]これに対する明快な回答などおそらくない。正当な怒りも、恥に基づく怒りも、いったんそれが生じてしまった段階では同じ怒りなのだ。自己愛の連続体はそのどこに傷がついても痛みを生じる。おそらくその怒りの性質の違いがわかるのは、そばにいて眺めている他人なのだろう。他人が「これは当然の反応だ。自分だって怒るだろう。」と思えるか、「あんなことで怒るなんて、余程プライドが高いのだろう。」と感じるか、である。とすれば先の問題に対する解答とは、「最初から自分の自己愛が肥大しないように心がけること」ぐらいしかないのだろう。しかしそうは言っても人は自分の自己愛がどの程度肥大しているかを、常にチェックすることなどできない。それどころか自己愛が肥大すればするほど、その種のチェック能力が損なわれてしまうのが通例なのだ。とすれば日常生活で体験する自分の怒りを一つ一つチェックすることくらいしかできないのだろう。そして毎回ムカッとしたときに自分に尋ねてみるのだ。「今自分は何に傷ついたのだろう?」おそらくそう出来た時点で、二次的な怒りのかなりの部分はその破壊力を失っているはずであろう。
しかしあれから昨秋森田療法学会での講演の準備を数ヶ月にわたって行ううちに、随分考えが変わってきた。人は自己愛の肥大が常に生じないよう努力をすべきなのだ。何しろ自己愛の風船が大きくなるのに比例して、自分も苦しいし、何よりも他人に迷惑がかかる。何もいいことはないのだ。それが重要ということであり、自分を小さくしていくという営みなのである。 恥と自己愛の治療論についての論じ方としては二つである。一つは自己愛の風船をいかに飼い慣らすか。そしてもうひとつは、いかに健全な自己愛により恥の病理を克服していくか、ということだ。後者に関しては、実は昔の雑誌を整理していて、私が10年以上前にある雑誌に寄稿したままになっていたものが見つかり、読み返しながら浮かんだことである。(「教育と医学」誌20028月号「特集・恥について考える」)それについて少しいかに述べよう。
「健康な自己愛」のもうひとつのタイプ

これまでの私の論述からは、私の言う自己愛は、自己保存本能に関するもの、動物的に備わっているもの、という印象を与えただろう。そして自己愛の風船の方はといえば、もっぱら他人との接点が問題になるようなあり方をするものとして論じた。でもスゴーく自己愛が強く、しかもその風船が侵害されないというケースについても言及しておきたい。それを達成するのも治療論に関係しているという意味でである。もしそのスゴーく自己愛的な人が本当に一人で満足している場合を考えよう。決して風船が邪魔されたり侵害されるおそれがない(あるいは非常に少ない)場合だ。それって一応健全は自己愛(の肥大?)ということになりはしないか?人に迷惑をかけないからだ。
 私の知っているある中年男性Pさんは、毎日膨大な原稿を生み出している。そこには過去の哲学者も網羅しきれなかったほどの叡智が込められているという。彼はそれを当分人には見せるつもりはないというのだ。Pさんは見かけは割とみすぼらしい。彼は仕事(お掃除)をしたりしなかったりで、同居中のお母さんにお小遣いをもらう毎日だ。だからお母さんには頭が上がらない。それに仕事場では彼がそのような「才能」を知る人はいないので、彼にぞんざいに接する。それでもPさんのプライドはあまり傷つかないという。「彼らは私の才能を知らないから」というのだ。そして私と話すときのPさんは自信に溢れている。(Pさんは私が彼の才能を理解する一人と数えているらしく、私の前では堂々としているのだ。)それに彼のそのような「才能」のために、彼は人に馬鹿にされてもめげないような力が与えられているのである。
 私はこの種の風船のふくらませ方をすることで、人は幸せになれるような気がする。これは健全な風船のふくらませ方だ。実はここで述べたPさんは多少問題がある。私は彼の「作品」を見せてもらっていないが、あまり「大したことがない」可能性が大きいのである。もう少し言うとPさんの自分の作品の評価の基準は少し危ういのだ。ちなみに彼は私がアメリカで会っていた患者さんだ。しかしもう少し健全な例はないのか。
 頭に適当な実例が浮かばないので空想してい見た。空想 fantasy という意味でFさんということにする。Fさんは一流企業に勤めていたが、入社して数年間勤務した営業部門で疲れきってしまった。彼の成績は悪くはなかったが、同僚との競争は過酷を極めた。それがあるとき、陶芸の世界に目覚め、その面白さに魅入られた。それから仕事を辞めて田舎にこもって、近くの街のスーパーで品出しのアルバイトの職を見つけ、ほそぼそと生活をしながら思い切り陶芸の世界に打ち込むようになった。そこには無限の世界が広がっていた。彼は土の勉強をして、その地方の山で陶芸に最もふさわしい土を発見した。そこでは決してお金をかけずに宝の露天掘りをすることができるのであった(陶芸のことをうっすらしか知らず、想像で書いているので実感ないなあ。こんな話あるのかなあ。)。彼は生まれつき陶芸の才能があったらしく(生まれつきの陶芸の才能、って一体どんなのだ?)彼の作る湯呑は一部の陶芸ファンや陶芸オタク(そんなのいるんかい?)に熱狂的に受け入れられ、オークションを通じてそれなりの収入を得るようになった。
F
さん(せっかく名前をつけたくせにやっと使われた)は陶芸の世界以外には知られていないので、世間的にはただのスーパーのおじさんでしかない。身なりも構わないからどこに行っても目立たないし人も騒がない。でも秘めたる自信がある。Fさんに自己顕示欲がないわけではないが、年に一度お台場で開催される「全国湯呑フェア」(テキトーにでっち上げた)で熱狂的に迎えられ、カリスマ扱いされるだけで十分である。
 Fさんは満たされているからスーパーで若い上司に怒鳴られてもあまりコタエない。仕事が辛くても帰宅して轆轤(ろくろ。読めない人のために。)に10分間向かうだけでも気持ちが解消される。Fさんはひとり暮らしの寂しさを体験することもあるが、もし妻帯して料理やお掃除が上手な人と一緒になっても、おそらく彼の家の裏の納屋に膨大に溜まっている失敗作の湯呑(といっても彼にとってはまだまだそれらの価値が理解される時代が訪れていないだけなのだが)は一瞬のうちに廃棄処分になるだけだ。ということでFさんは今の生活で満足している。それでいいのだ。
 ところでこのFさんの話はかなり「盛って」ある。つまり彼の場合はあまり現実的ではない幸運続きなのだ。ひとつは、彼には陶芸の才能があったことだ。轆轤に向かっているとそれだけで時間を忘れる。そして彼の創作活動はそれなりに社会に受け入れられ、収入にもつながったのだ。(言っていなかったっけ?Fさんはオークションで月に数万円ほど稼いでいたのだ。)彼は年に一度だけれど、有明でカリスマとしてチヤホヤされているのだ。そしてもうひとつ、これは大事なのだが、チヤホヤされることでもっともっと、とはならなかった。意味見なく自己愛の風船を膨らませることがない。なぜなら彼は若干人嫌いなところがあるのだ。だからしばらく人と会っていると「もういいや」となりまた山に入っていく。だからひとり暮らしも苦にならない。Fさんには結婚願望もなく、家庭を築き、子供を持とうという気持ちもない。マイペースなのだ。
 このマイペースという部分が何故重要かというと、「人並みに自分も~したい」「中学時代の同窓会に行ったら、皆それなりの企業に勤め、妻帯していたので、オチこんでしまった」という人は、本当の意味での幸せをつかめないからだ。自己愛の満足が常に他者との比較により成り立っている人は、自ら不幸を背負い込む人生を送っているようなものである。どこの世界に入っても、「上」を見ればきりがない。「上」に上がろうとすると上司にはペコペコしなければならず、その鬱憤は部下へ向かう。ところがFさんのような場合は、それがないから隣人を見て自分と比べて落ち込むということも少ない。無駄な自己愛の傷つきも少ない。
 自己愛の風船のメタファーで考えてみようか。大部分の人間はFさんと違い隣の人と自分を見比べて生きる人たちだ。一般の人たちという意味でAさんとしよう。Aさんの風船はいつも膨れたがる傾向にある。まあそれは人間一般の傾向なのでFさんも同じなのだが。人に褒められたりちやほやされたりするとそれが少し膨れる。人にダメ出しをされてそれはしぼむ、ということを繰り返す。基本的にその膨張や縮小を決定するのは、周囲にいる人たちの反応だ。
F
さんタイプの人の場合は、「俺は~で行くんだ!」というようなものを持っている。その主観的な出来が風船の膨らみにかなり大きな要素となる。しかし他人からの評価も大きい。彼が見よう見まねで初めて捏ねた湯呑は、それなりにお師匠さんから褒められた。「初めての作品にしては、光るもの上がる。」なーんてね。(言うのを忘れたが、彼には陶芸の才能を見出してくれたお師匠さんがいたのだ。)もしFさんの才能をやっかんで、何を作っても「全然ダメや。もう陶芸は止しときなはれ」という人だったら、Fさんはもう嫌になってその世界から早々と足を洗っていた可能性すらある。あらゆる創造的な活動は、それを行っていることの純粋な楽しみと、それを評価してくれる人から与えられる自己愛的な満足の混合である。おそらく創造的な活動の喜びは、自分の才能が伸ばされていくという実感と、それを客観的に評価してくれるような何かが重要な役割を果たす。ピアノだったら、だんだんと難曲を弾けるようになっていくこととか、周囲の人からの評価など。
F
さんタイプの場合、ある意味では自己愛の風船の膨らみ方は、何らかの比較を前提としているのかもしれない。昨日弾けなかった曲が弾けた、とか。(あれ、いつの間にかピアニストの話になっているぞ。)昨日は褒めてくれなかったお師匠さんが、今日の湯飲み茶碗を見て(戻った、戻った)少しニコッとしたとか。それでもそれこそ日常に出会う人の全てから評価を得なくては気がすまないということではない。彼の中には実質的にその風船の内実を支えてくれている実感がある。「自分はこれをやっている限り、満足できるし、自分の力も限界も自分が一番よく知っている。だから人に馬鹿にされる恐れはないし、たとえ人に馬鹿にされたとしても、その人は私の陶芸の才能など知る由もないから、根拠のない中傷に過ぎない、だから自分も傷つかない。Aさん(つまり私たち一般)のように自分の中心に自信がないと、くだらないことで傷つく。
健康な自己愛とは、自分に純粋な喜びをもたらせてくれるような創造的な活動を見つけ、それに携わることで自分を中心から支えられている状態である。
自己愛の風船を飼い慣らす
しかしFさんになれない私たちはどうしたらいいか。大部分の私たちはFさんにとっての陶芸のようなものを見いだせない。人から特別賞賛されるようなことなど何も持たないのが私たちの通常のの姿だ。あるいはFさんのように他人と自分を比較しないという美徳を持たない。しかも私たちが時々出会うある種の人々については、「他人と自分を比較しない」どころではない。ターゲットとなるような人を常に探してしまい、その人が羨ましくて、憎くて仕方がないという人たちもいる。あたかもそれが生きがいであるかのように、その人を羨望し、そして憎しみを向ける。Envy (羨望)だからEさんだ。
 Eさんはだからといって大きな自己愛の風船を持っているわけではない。しかし状況が許せばそうする素質はもともとある。Eさんが持ち前の馬力で仕事をし(Eさんは人並み以上の能力をそなえていておかしくない)ある分野で力を発揮し、それなりの地位を築くと、彼の下で働く人が増えていくだろう。するとそれに相応して彼の自己愛の風船は膨らんでいく。するとEさんの部下にとっては結構悲惨なことになる。やたらと威張る。叱り飛ばす。ライバルの愚痴を聞かされる。Eさんの部下にとっては、能力があることはEさんの逆鱗に触れることになる。能力があるというだけで、Eさんの自己愛の風船を刺激するのだ。
 ただしEさんにそれほどの能力がない場合は、一介の平社員や家庭人で収まっている場合がある。すると配偶者や子供を相手にしてしか自己愛の風船を膨らませることができないだろう。すると家族は結構苦労することになる。家庭内での支配者。暴君。すぐ暴力を振るったり、自分の方針を押し付けたりする。これは実はとてもよくあるパターンだ。風船をふくらませたくても膨らませないでいる人達。これも結構厄介な人たちだ。一緒に暮らす人にとっては。
さて私はエッセイのこの項目を終えるに当たり(あれ、そうなの?)一種の処方箋のようなものを書いているのであるが、FさんになれないAさん、つまり私たちの大部分、あるいはEさんにとっての処方箋はどうなのか?
おそらくEさんのタイプは一生そのままなのである。自分を変えようという動機もないし、とにかく自分より優れた他人を見ることからくる苦痛や怒りと戦うことでエネルギーを費やしてしまう。もちろん自分の自己愛のシステムを見直すという、これから私がAさんたちに対して提供する処方箋(すごくエラそうで上から目線だな)

ということでAさんたちにとっての自己愛の治療は、やはり死生観と関連せざるを得ないと思う。ここら辺はモリタについて論じていたこととつながる。Aさんの自己愛の風船は、それが本来は得られなかったもの、天からの授かり物と考えることで、つまりイメージの世界である程度萎ませることができる。例のサラリーマン川柳「カミさんを上司と思えば割り切れる」は秀逸だが、他人(自分に対してもだが)に対してどのようなイメージを持つかで、体験は全く変わってくる。
 ただしNPDに対する治療論が私の中で今ひとつ発展しないのは、やはり彼らによって困らされているのは周囲であり、本人ではないということではないだろうか。自己愛の風船は膨らんでいく。それは当人にとっての快感原則に従っているからだ。人間の本性というべきか。それは突き当たるところまで行って膨張をやめ、あるいは収縮する。あるいはこの間の猪瀬さんのように一気にしぼんでしまう。それでも人は通常は生きていく。欝にでもならない限り。そして小さいなりの風船を保ちつつ生きていくのだ。