2014年1月26日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(8)

一昨日テレビでタイガース再結成の映像を流していた。とても懐かしかったが、ジュリーはもう少し体重を落とすわけには行かなかったのか? 私が小学生の頃テレビで見たジュリーは本当に美しかった。久しぶりにテレビで見たジュリーは、声はよく出ていたが、見た目はNHKの「ダーウィンがきた!」に出てくる「ヒゲじい」ソックリで、笑ってしまった。

7.恥と自己愛の二次元モデル

対人恐怖と自己愛という問題
私は自己愛とか恥の問題について以前から関心があったが、それはもともと両方とも私の性格の中にあったものだと思う。それが共存し、お互いに干渉仕合いぶつかり合い、時には助長し合っているのである。ただし私の幼児期は気恥かしさとはあまり縁がなかったと思う。人見知りはあまりなく、誰にでも近づいていくほうだった。思春期以降偏屈になっていったわけだが、幼少時は極めて波風のない(ただし通学時間を往復3時間一人で過ごすような)子供時代だった。だから二つの傾向の中では、自己愛部分がより素の自分のあり方として思い出される。
 私は基本的に「モノづくり」が好きだった。実家が事業をしていたせいもあり、また田舎暮らしだったので、有り余る時間を庭先に転がっている様々な廃材を使った工作に宛てた。ギターとかバラライカの類をよく作った。また後には野球のグラブやミットも作るようになった。といってもそれらのような「形をしただけ」の使い物にならないひどい出来だったが。(ギターの弦を町の楽器屋に買いに行く、という発想もなく、釣り糸を代用し使った。)そしてここが大事なのだが、出来上がったものを人から評価されるのが好きだったのだ。
 人からの評価はもちろん創作の絶対条件というわけではなかった。自己満足な部分がある。しかしなんだかんだ言って、夏の工作を9月の新学期の初日ににせっせと学校に運んだところを見ると、人に評価されることはかなり大きな部分を占めていたらしい。
 とにかく純粋に思い描いたものを自分の手で作るのが好きだったというわけでもなさそうだ。また子供時代はひどい田舎に住んでいて、近くに友達がいなかったことも「制作活動」と関係していたかもしれない。とにかくこちらは私の「自己愛的な部分」としよう。「自己顕示的な部分」といってもいい。
さて他方の対人恐怖傾向は思春期以降だ。子供時代に非常に人懐っこかったことを考えると、多くの対人恐怖の患者さんのように、私も思春期以降「発症」したのかもしれない。といっても特に症状はなかったが、とにかく自意識過剰になったのだ。人前に出るのはむしろ苦痛になった。というより人前で何かを行うのが嫌になった。それでも高校の文化祭などで、人前でギターを弾いて歌ったりしていた。あれはナンだ? そう、一部は成り行き上仕方なく、他方では自分の存在をわかってほしいと思っていたからかもしれない。こちらは「対人恐怖的な部分」としよう。
私の原体験は、この両方が常にぶつかっていたということだ。この現象が非常に興味深く、この仕事に就いた時に「対人恐怖」がすぐにテーマになったというわけである。
「恥と自己愛の精神分析」という本を1998年に書いた時、私はおかしな図を描いた。それは次のようなものだ。縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さ。二つの傾向は独立変数だ、というわけである。
ところで臨床心理の世界に多少なりとも馴染みができると、実はこのテーマを扱った論文が結構あるのだ。パクリに見えるものもある。例えば清水先生という方が、対人恐怖心性ー自己愛傾向2次元モデルと作成したという(心理学研究2007年)。
 実は私は自分の著述が誰かによって継承されているということを全然知らないでいた。臨床心理の教員となり、院生の書く修士論文を通して、すでに何回かこの種の研究を目にするようになったのである。例えば対人恐怖尺度と自己愛の尺度を使って研究協力者を4つのグループに分けることができる。あとはそれぞれのグループの特徴を抽出して比較することで様々な所見が得られることになる。
 この種の研究で決まって出てくるのが、自己愛の傾向と対人恐怖傾向は概ね相反的であるという傾向である。つまり自己愛の傾向が高い人は、対人恐怖傾向は概ね低いということである。これは直感的にもよくわかる。自己愛的な人は外向的で人を巻き込み支配するタイプであり、引っ込み思案で気が弱い対人恐怖傾向とは全く逆ということになる。
 ではどうして共存し得るのだろうか。改めて考えてみたい。私の二次元モデルの図を見ていただきたい。私は「恥に対する敏感さ」、と「自己顕示欲」という二つの次元を考えた。前者は今から考えると少しおかしな言葉だが、まあ対人恐怖傾向と同じと考えていただきたい。後者は自己愛、とは言わずに「自己顕示欲」としたのである。実は今から思えば、私が自分で持っている傾向は本当に自己愛傾向なのか、というのがわからなかった。私は確かに自分を表現したいとは思うが、人を支配するという願望が人一倍強いとは思わない。私が持つ自己愛のイメージは「対人恐怖と逆のタイプ」とは異なるものなのだ。あえて言えばコフート的な自己愛、ということだろうか?でもカンバーグ的な自己愛ではない・・・・。あまりこのブログで扱ってこなかった重要な問題である。
カンバーグタイプとコフートタイプの自己愛?
 まあわかりやすく言えば、これは厚皮型か薄皮型か、ということだ。傍若無人か、気弱か、ということもある。見たところかなり異なる。後者は一件対人恐怖的だ。ただし対人恐怖と違うところは、「自己愛の傷つきに極めて敏感だ」ということである。対人恐怖は、もっぱら対人場面が怖い。薄皮型は、自己愛の傷付きに敏感・・・。両者は果たして違うのか?実は対人恐怖の人だって、「だってみんな自分のことをおかしいと思っているんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか、と思うから」というかもしれない。
 この種の議論が起きてきたのは、1980年代以降になり、米国でいわゆる恥の議論が高まってきたということと関係している。
 その中にアンドリューモリソンという分析家がいた。彼が「恥 ― 自己愛の後ろ側 shame – underside of Narcissism」という本を書いたのだ。精神分析の専門書、カタい本である。おもえば恥と自己愛という、本来は対極的にあるテーマが私の頭の中で結びついたのはこの本がきっかけかもしれないが、彼自身はこれをコフートから引いていた。彼はコフート派だったのだ。そしてそれが少なくとも米国の精神分析学会の一部の人たちに火をつけたのだ。彼らの主張は、フロイトは全然といっていいほど扱っていないけれど、恥の議論ってすごく大事だよね、ということだった。
 モリソン及びその仲間たち(ブルーチェック、ネイサンソン、そのほか)の人たちの論旨を簡単に言えば、恥は自己愛の傷つきである、ということだ。私は「その通りだ!」と思ったし、アメリカの分析家たちにも同じようにアピールしたと思う。しかしどうしてだろう?恥と自己愛は反対の関係なのに。 ということで今日は朝起きてからこの問題を考えていた。途中で寄ったドトールで思いついた。カギは自己愛の二つの要素にあるのだ。自己愛の風船の大きさと、過敏性と。恥と自己愛の問題は、風船の大きさと過敏さだ。何度も言うけど。風船への侵害による痛みイコール恥、というのはいい。というかそういう風に定義しよう。少なくともモリソンはそういっているし、コフートもそう言いたかった。そしてギャバード先生も、そのほか薄皮の自己愛を唱えている人たちは皆そう考えている。
 問題は、自己愛の風船が小さく、また侵害されてもそれを怒りに転化することができずにただただ恥じて消え入りそうになっている人は、全然自己愛的に見えない、ということなのだ。いや、それでも彼らは牙をむくことがある。ところが彼らは普段はおとなしくて全然自己愛的には見えないから(彼らの風船は小さいから、偉そうに見えないのだ)、時々怒り出すおかしな人、近寄らないほうがいい人たち、ということになるのだ。
するとカンバーグ的な自己愛か、コフート的な自己愛か、ということについては、前者はもっぱら風船の大きいタイプ、コフートは風船が敏感なタイプ、ということになる。
二元論モデルとは結局何だったんだ?

 最後にまた二元論モデルに戻る。私は縦軸は自己顕示欲の強さ。横軸は恥に対する敏感さとした。縦軸は大体風船のサイズに一致するか。そして横軸は風船の敏感さということになるぞ。
 ちなみに自己顕示欲の強さと風船のサイズ咎対応するというところはピンと来ないかもしれない。でもそもそも大体風船が膨らむタイプって、自分を表現したいという欲求があるからそうなっていくのだと考えられないだろうか? 人を支配して、命令をきかせて、自分のやりたい方向に周囲を従わせて、となって「俺はすごいんだ」感が広がっていくのだから。
 では両軸の大きさを測る指標としては何を使うか。縦軸は自己愛の中でも敏感さを抜いた指標があればベストだろう。カンバーグ的な自己愛人格の指標。横軸としては対人恐怖傾向というより恥の敏感さか。でも風船の敏感さって、対人恐怖と同じことなんだろうか?それが問題だ。アスペルガー傾向の人の被害的な感じは対人恐怖とは違うだろう。彼らは対人的に鈍感で、つまり相手のことがわからなくても敏感だぞ。そうか、対人恐怖って相手の気持ちがビンビン伝わってくることによる敏感さでもあるんだ。ところがここで問題になってくる風船の敏感さは、相手のことがわからなくても敏感という音がある。実際そういう人を知っているのだ。