2014年1月25日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(7)


6.自己愛と怒りの問題
自己愛と怒りの問題は極めて重要だ。NPDの人が周囲に及ぼす様々な影響の中で、怒りほど厄介なものはないからである。だいたいNPDぶりを発揮する人の場合、その怒りの表現が許されてしまう。すると周囲はそれにかなり直接的な影響を受ける。
昨年末に私たちの背筋を凍らせるような事件が起きた。
【ソウル=豊浦潤一】北朝鮮で政権ナンバー2だった張成沢朝鮮労働党行政部長が処刑されたのは、張氏の部下2人が、党行政部の利権を軍に回すようにとの金正恩第1書記の指示を即座に実行しなかったことが契機になったと20日、消息筋が本紙に語った。
 金正恩氏はこれに激怒し、2人の処刑を命じ、国防委員会副委員長も務めた張氏らに対する一連の粛清が開始されたという。
 部下2人は、同部の李竜河第1副部長と張秀吉副部長。消息筋によると、2人は金正恩氏の指示に対し、「張成沢部長に報告する」と即答を避けた。激怒した正恩氏は「泥酔状態」で処刑を命じたという。
 部下2人は11月下旬に銃殺され、驚いた2人の周辺人物が海外の関係者に電話で処刑を知らせた。韓国政府はこの通話内容を傍受し、関連人物の聞き取りなどから張氏の粛清が避けられないことを察知した。最終的に処刑された張氏勢力は少なくとも8人いたという。
 (201312211041  読売新聞)
例の自己愛の風船が膨らんでいった最終地点。それが独裁者の道である。部下に口答えをされた時の正恩氏の気持ちは想像がつく。「こいつらなめとんか!」しかしこれは自己愛に関連した恥、コフートの言う「自己愛憤怒」なのだということは皆あまり考えないのではないだろうか。実はこの種の怒りは私たちが日ごろ体験していることである。しかし普通の社会では腹が立った相手を抹殺することなどできない。せいぜい「藁人形」程度だ。しかしそれが地位を持ち、風船がとてつもなく膨らんだ人にとっては、他人の命を合法的に奪うまでになる。なんと恐ろしいことか。
怒りについての一般論
少し怒りについての一般論に遡る。従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribot(テオドール・リボー)の説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している。この種のストレートな理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。それはファリックで父親的であり、力の象徴というニュアンスがあったのである。
 もちろんこの種の怒りはありうる。例えばカバンの中からイヤホーンを取り出そうとして、コードが絡まってなかなか取れないとする。気が短い人の場合にはイライラしてコードを思いっきり引っ張って使えなくしてしまうかもしれない。これなどは「欲求の満足を妨げるものへの怒り」であり、この種の怒りはいわば人格化されていない、直接的な怒り、欲求不満に直結した怒りであり、欲求の満足が得られればそれでやんでしまうたぐいのものである。
 
しかし私たちにとって厄介な怒りは、より人格化した怒り、それも恥の感情に関連した怒りである。これはいわば二次的感情としての怒り、と整理することができる。この理解に立つと怒りは、その背後にある恥や罪悪感との関連から捉えられる。つまり恥ずかしい、とか自分はなんと罪深いんだ、という感情の直後に、怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。
怒りが最初からポンと生じる場合がある。それはそれでいいだろう。ただ私たちが社会的な存在としてこの世で生きている時に生じる怒りは、大概「対人化 interpersonalize」している。怒りは二次的に生じるのだ。そのことを説明するのが、この怒りの二重構造説である。ただ順番としては、一次的、プライマリーな怒りの説明から始めたい。
一次的な感情としての怒り
そこでこの「一時的な感情」としての怒りの由来を考えてみる。それは自己保存本能と同根である以上、進化の過程のいずれかの時点で生物に与えられたそれが、そのまま継承されたはずである。ちなみに精神分析では怒りとはプライマリーなものであるという捉え方は半ば常識的である。フロイトもそうだし、メラニー・クラインもそうだ。オットー・カンバーグもそのような路線で論じた。他方ウィニコットやコフートはそれとはかなり違った方針を取った。私の怒りに関する議論はコフートに大きなヒントを得ているが、プライマリーな怒りがないとは思わない。それを以下に述べるが、精神分析とは異なる論拠からである。
かつて脳の三層構造説を唱えたPaul Macleanは、攻撃性は最古層の「爬虫類脳」にすでに備わった、自らのテリトリー(縄張り)を守る本能に根ざしたものであるとした。Macleanのいう爬虫類脳は脳幹と小脳を含み、心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担うとともに、自分のテリトリーを防衛するという役割を果たす。
 たとえばワニは卵を産んだ後にはしばらくその近辺をウロウロし、侵入者に対しては攻撃を仕掛ける。しかしその時にワニが「怒って」いるかといえば、そうではない。もちろんワニの身になってみないとわからないが、おそらくそう見えるだけである。感情をつかさどる大脳辺縁系は、ひとつ上の層である「旧哺乳類脳」のレベルまで進まないと備わらないからだ。
 そしてここでいうテリトリーを象徴的な意味も含めて用いるなら、それを守る本能は、上述した人間の健全な自己愛の原型と考えることが出来るだろう。それは自分や子孫を守る上でぎりぎりに切り詰めた「領分」を維持するためのものなのだ。
 ウォルター・キャンノンが1929年に、動物が危険にさらされた時の二つの反応パターンとして「闘争・逃避反応」(よく出てくる表現だ)を提唱した際、この辺縁系をも含めた自律神経の活発な動きに注目したのである。オスのカモシカは、もう一頭のオスが近づいてきた際には、ツノを振りかざして威嚇し、追い払うかもしれない。その時は辺縁系の扁桃核や中脳の青斑核が刺激され、交感神経系が興奮し、闘争の態勢に入っているが、主観的には怒りに近い感情を体験しているはずである。この怒りの感情はあくまでも、自分の身の安全や自分のテリトリーを守るための正当なものであり、この部分をそのまま引き継いだのが、私達の怒りのうち「一次的感情」に属する部分というわけである。
 ここでカモシカの身になった場合、怒りに先立って、何かを侵害された、踏み込まれた、という認知が生じることは間違いないだろう。カモシカは自分の体の周囲の一定の範囲を自分のテリトリー(領分)とみなすはずだ。そこに入ってきたらそれを判断して、しかる後に猛然と怒るのだ。彼(と呼んでしまおう)は、はるか向こうに見えるカモシカの姿に対しては、それに反応して突進などしないだろう。「あっちに、自分と同じようにテリトリーを守っているカモシカがいるなあ」、と認知するだけだ。ところが一定以上に自分のテリトリーや、そこにいるメスに近づこうとするカモシカには「あの個体は侵入してきた」という認知を経て怒りの感情が湧くはずだ。
 そこで「一次的な怒りはテリトリー侵害による」と一応言ってしまおう。ここで一次的(英語ではプライマリー、とにかく最初に起きるもの、という意味)と断っているのは、およそ生物を観察する限り、いかに下等であってもこのテリトリー侵害への怒りに類似する反応を起こさないものはないからだ。生命を有するということと、テリトリー侵害に激しく反応するということはほぼ同義と考えていい。おそらく侵害されても平気な個体は、進化のどのようなレベルでも瞬くうちに淘汰されてしまうだろうからだ。突然変異で「極めて寛容」なアメーバが生まれたとしよう。彼は他のアメーバに貪食されてもヘラヘラしていているだけで、あっという間に餌食になってしまう。これじゃ子孫を増やせないだろう。(まあ子孫を増やすと言っても細胞分裂するだけだが、その暇もないはずだ。)
さてここで大事な問題について問うてみたい。テリトリーを侵害されたカモシカは、恥の感情を持っているだろうか? おそらくそうではない、という答えが圧倒的であろう。「テリトリーを侵害された」という認知は、即怒りに向かうはずだ。しかし最大の問題は、このテリトリーは、自意識が生まれるとともに想像の世界で膨らんで行くということだ。現実のテリトリーではなくて、想像上のテリトリーというわけだ。するとどうなるか。もしカモシカにそれなりの自意識が生まれたとしたら、「ああ、侵害されちゃった。俺ってなんてふがいないんだろう…。あいつ(相手のカモシカ)はどうせ俺のことを馬鹿にしているんじゃないか? (馬じゃなくて鹿だけど…)俺もナメられたもんだぜ。」
 まあこれは動物では起きないだろう。それだけの想像力がないからだ。しかしちょっと待ってほしい。動物の場合も、相手を撃退できず、逆に押し込められたら恥の前駆体となるような感情が体験されないと言い切れるか? 喧嘩をして負けて尻尾を巻いて逃げる犬。若い雄ざるに力で圧倒されて、とぼとぼと群れを去るボスざる。相手のコブの大きさに威嚇されて自分の領分であった岩山を去るコブダイ。(ヒエー、魚まで入れちゃった!)「俺ってナサケねー、ショボン・・・」と言っているようだ。
 しかしここは、これ以上妄想を膨らませることなく、一応次のように言っておこう。動物には恥の感情はない。ほかの個体に見られる自分を想像し、恥ずかしがったり、自分を不甲斐なく思ったりという心の働きは持たないのだ。彼らは相手に負けた時は「まずい、逃げるしかない…」という感じなのだろう。すなわちそこに居続けると身の危険が迫るから立ち去る(泳ぎ去る)のであり、それ以上でも以下でもない。要するに防衛本能に従ったまでなのだ。「俺ってどうしてこうなんだろう?また負けちゃったよ。情けないな。」「俺の額のコブって、どうしてこんなに貧弱なんだろう。いやになっちゃうよ…(コブダイ)」とはならない。それは自己を他者と比較したり、客体視することができないからだ。
 動物にもそのような能力の萌芽があるって?天才ボノボなら少しは恥の感覚はあるだろうって? よろしい。それはそれでいいのだ。天才イルカの中には恥の感覚を持つ者もいるかもしれない。そこら辺は人間とそれ以外の動物を峻別する理由はない。第一人間にも「恥知らず」はいくらでもいるではないか。人の姿をした猪もいる?ナンのことだ?
 ちなみに動物も逃げる時は恥の感情に近いものを感じているのではないか、というこの発想は、後に私の考察にとって重要になってくる。
 ところでふと考えたが、動物に恥を想定しないということは、実は動物に怒りを想定する根拠もその分だけ奪う、とは言えないだろうか? 逃げる、という行動が純粋に身を守るための手段であり、感情を必ずしも必要としないのであれば、相手を撃退するという表面上は非常に攻撃的な行動だって、本能に従ったものになりはしないだろうか? もちろん攻撃も逃避も俊敏で激しい身体運動を必要とするし、そこに感情が伴っていればそれだけそのような身体運動を誘導しやすいとイメージすることはできるが、例えば激しくこぶしで打ち合っているはずのボクサーたちが案外冷静だったりするのと似ているかもしれない?・・・・つまり私は「動物は怒りはあっても恥はない」という常識の両面を疑っているわけだが、これでは読む人はなんのことだかわからないだろう。
正当なテリトリー
ここで「正当なテリトリー」を想定することは重要だ。それを守ることは、プライドとは別の、健全な自己保存本能とでも言うべきものに関係している。「電車の座席のスペースが自己保存本能と関係あるんだって?」と反応されそうだが、少し説明させて欲しい。
正当なテリトリーの原型はおそらく身体のバウンダリーそのものだろう。皮膚を破って侵入しようとするものは激しい痛みを引き起こすだろう。そのような刺激を忌避し、回避することは自分の身の安全を確保するために絶対必要だ。これはプライドの問題ではない。そして身体に接触しなくても、誰かが近くでジロジロ覗き込んだとしたら恐怖感を感じ、怯えるのが自然だ。だから私たちは身体の表面から一定の範囲の領域をパーソナルスペースと呼び、そこは守られるべきだと感じる。国家で言えば領海、領空のようなものと考えていい。それを守るのはどのような進化レベルの生物にも共通していることなのである。そしてその侵害に対しては、断固たる態度をとるのが正しい対処法だ。というよりそのような態度は自然と起きてきて当たり前
である。起きないほうがおかしい。どんなに心優しい人でも、見知らぬ通行人の叔父さんに傘で足をつつかれたら怒って抗議して当然だ。しないほうが何かの病気だろう。もちろんそのおじさんの顔を見て安倍首相だったら、また違った対応になるだろうが。
「正当なテリトリー」と健全な自己愛
さてこの正当なテリトリーとそれを超えたナルシシズムの概念をつなぐ意味で、「健全な自己愛」という概念を導入する。実はこれは、自己愛の二種類、という問題について論じたこととも関連する。自己愛とは自分を愛する、という一人称と、人に賞賛されるという二人称的なものがあるといった(いや、実際はそういう言い方はしなかったが・・・)。するとパーソナルスペースを守るのは、どちらかといえば一人称の自己愛だ。そしてそれは自己保存本能に根ざし、動物のレベルで存在するというわけである。
 そして当たり前の話だが、二人称的な自己愛が大きく発達した人(風船が大きくなった人)も、当然この「正当なテリトリー」の侵害に対する反応はするだろう。自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一次的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。
ただし「正当なテリトリー」を守るという健全な自己愛と、一人称的な自己愛がぴったりと重なり合うかというとそうでもない。恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)では、一人称的な自己愛の例として、自分の姿を見てうっとりする青年という例を挙げたが、それこそナルキッソスのようにそのまま飲まず食わずで死んでしまったならばそれは病的というわけだ。しかし自己陶酔が極端なかたちで生じている場合も、おそらくあまり病理性は問われないだろう。そもそも自分の姿に恋焦がれて死んでしまうような人など聞いたこともないし、自分の姿の美しさや完璧さを周囲の人々が認めることを強要するところから、即ち二人称的な自己愛に変質するところから病理は始まるのである。
自己愛連続体の図式
ここでこれまでの議論を分かりやすくまとめた図(図1)を紹介しておこう。




これまでいくつかの著述に用いたものであり、その意味では読者の目にある程度はさらされ、そのテストを通過しているものと言えなくもない。
この図式がこれまで話に出てきた「風船」の話とも関係することはお分かりであろう。




 


 








 
その原型は下の図2である。非常にシンプルで、これ自体は何を指しているのかわからないかもしれない。これは動物レベルでの自己愛に相当するものであるが、自己保存本能に基づいたものとも言える。動物レベルでは自分を愛するという傾向と自己保存本能に従ったものは一致する。なぜなら自己イメージを明確なかたちで持たないからだ。
 ただしこれには例外があるかもしれない。例えばサル山のボスザルを考えてみよう。どんぐりテスト、というのを読者はご存知だろうか?猿山で何匹かの申のあいだにどんぐりを落とす。すると上位のサルがそれを取り、下位のサルはそれを横目で見ているだけなのだ。(あれ?確かめようとして「どんぐりテスト」をググってみたが、出てこないや。呼び方は違っているかもしれない。)
でももしボスザルの横に落ちたどんぐりの一つを、若いオスざるがかっさらって言ったら、ボスザルはきっと切れるはずだ。「わしをなめとんのか、コラ!」ボスザルは決してそのどんぐり一個を食べないことで飢え死にしたりしない。つまり自己保存本能に根ざした怒りではない。するとこれって・・・・・。「膨れて」はいないか?何がって?自己愛の風船が、である。
ちなみにここでサラっと触れたこと、実は重要かもしれない。ひょっとしてサルの社会でも病的な自己愛が成立しているということか? 私の文脈は明らかに、動物は健全な自己愛のみ所有するというものだった。しかし社会を作る動物の場合は事情が異なる可能性がある。ここも人間とそれ以外を峻別する必要はない、ということか。
 でも社会を形成する動物には、アリとかハチも含まれるだろう。女王蜂はすごく自己愛的だったりして。「そこの働き蟻、頭が高いぞ」みたいな。まあここは、しかし感情を有するのは大脳辺縁系を有する生物以上、つまり爬虫類より上の動物、ということにしておこうか。それ以下は、極めて精巧な、しかし感情を持たないロボットと見なして差し支えないということだ。女王蜂ロボット。

人間のテリトリーにはプライドが加算される
先を急ごう。動物はその侵害への反応として正当にも「怒る」のだ、というところまで話が行った。では人の場合はどうか?このテリトリーとは人の場合にはどのように体験されるのだろうか?
 結論から言えば、人にとってのテリトリーは想像力により巨大化し、風船化する傾向にあるのだ。コブダイだったら身の程にあった岩山で満足するだろう。ところが人間並みのプライドを持ったらどうなるか。「俺は偉いんだぞ!第一水面に映った俺のコブは相当かっこいいぞ。」(魚は、おそらく水中から見た空を鏡にしているだろう!)となり、「俺様にふさわしいだけの岩山を支配するぞ。」そうして気が付いたら近くの岩山をすべて征服しているのだ。もちろんすべての岩山を見張るわけにはいかない。そこで周囲の幾つかの岩山のコブダイに睨みをきかす。彼らもボスコブダイに合うと目をそらせたり尻尾を巻いて逃げたりするから、ますますボスコブダイは図に乗る。するとほんの遠くにちらっと見えたコブダイがガンをつけたり、頭を下げり(するか!)しないだけで猛然と怒り出す…。コブダイではありえないようなこんな話が、人間では起きてくるのだ。人間とコブダイでどこが違うかと言えば、「俺様は偉いんだ(駄目なんだ)」という自意識の存在である。自分を客体し出来るということはそこに優劣、強弱という属性を必然的に含みこむ。ところがそれを生み出す想像力には限界というものがない。俺様は偉いと思い込んだコブダイは、もはやこぶの大きさで相手との優劣を決めるわけではない。何しろ「何とか山のドン」とか言われるとどの程度偉いのか分からなくなり、その分だけテリトリーは肥大していく。どこまで肥大するのか? 周囲が許容する限界までである。そしてこれはすでに述べた「自己愛風船論」につながるのだ。
プライドの加算分が恥になり、怒りに転嫁される
もうちょっと詳しく説明しよう。人間の場合も動物であるから、テリトリー侵害の仕組みは動物と同じだ。そこでまずプライドにより水増しされていないテリトリーの感覚を想像しよう。いくら想像力に富んだ人間でも、テリトリーを水増ししない場合がある。そこで「正当なテリトリー」という言い方をここで作ってしまおう。(ブログだから好きにできるのだ。)コブダイにとって自分のコブの大きさに見合った岩山。これは人間にもあるぞ。うーん、うまい例はないかな。
 あなたが電車に乗り、あいている席に座る。電車の座席に座る時、大体自分に与えられたスペースはどのくらいかはわかるはずだ。そのスペースはおそらく「正当なテリトリー」に相当するはずだ。そこに隣の人の傘が割り込んできたら、あなたは憤慨するかもしれない。隣のおじさんがあなたのテリトリーに割り込んで来るような大きなカバンを膝の上に載せたら、「これってちょっとひどくない?」と思うだろう。それは正当な怒りや苛立ちのはずだ。
 少し分解写真のような見方をしてみようか。一種の思考実験だ。膨らんだ風船に侵害が起きる。例えばある会社の重役、例えば部長の男性に対して年下の人、例えば課長がぞんざいな挨拶をする。具体的には、その部下が「お疲れさま」と言ったとする。これは怒るだろう。上司に「お疲れさま」はない。「お疲れさまです」だ。既に書いたと思うが、ぞんざいさはどこまで「手抜き」が許されるか、による。「お疲れさま」は明らかに手抜きだ。)しかしそれを言った人が自分の上司だとしたら、「お疲れさま」は全く問題がなくなってしまう。同期の同僚なら?それもいいだろう。するとこの「お疲れさま」を聞いた時にイラっとするというプロセスは、実は非常に複雑な認知プロセスを経ているということがわかる。まず「お疲れさま」を聞いた時点で、おそらく「丁寧度」が査定される。「どうもお疲れ様です。」→「お疲れ様です」→「お疲れさん」→「お疲れ」→「オツカレー!」という丁寧さ(ぞんざいさ)の階層がある。別に数値化されている訳ではなく、ちょっと塩辛いかな、とかちょっと派手かな、というのと同じだ。ニュアンスとして、体感として感じられるものである。そしてそれとその人との関係性とのマッチングが行われる。そしてそこに何らかの「齟齬」があると、「何だと!!!!」という怒りの感情が湧く。特に自己愛の風船が膨らんでいる人ほど、周囲はその風船をついてしまわないように注意しなくてはならない。・・・・・。
 ここで恥の問題がかかわる。部下に「馬鹿にされた」という認知とそれに伴う感情としての恥が、この怒りの一瞬前に体験されるというわけだ。それを「証明」してみよう。この状況から怒りを「消去」して見る。その課長クラスの人間が、部長の秘密を握っている。「私を怒らすと、秘密をばらしますよ」という状態にあるとするのだ。いわば課長に脅されている訳である。するとこの馬鹿にされた体験が人前で起きた場合は「あの部長は課長にぞんざいな挨拶をされても何も反応できないような、部下に舐められている上司だ」ということになり、恥辱体験となる。そう、怒りはこの恥辱に反応したことになるのだ。
 昔クリントン大統領(当時)がモニカ・ルインスキーの件で、スキャンダルにまみれた時、彼はプライベートではものすごく怒っていたという。ところが公衆の前では怒るわけにはいかない。だいたい自分が種をまいたのだから(文字どおり!!)だから抑うつ的になったのである。彼の心の中は恥辱の感情に満ちていただろう。
恥辱の魔法の解消法 
さてここでこの苦しい恥辱の感情を解消する素晴らしい方法があるのである。それは、侵害をしてきた相手を怒り、罵り、撃退することだ。もちろんその相手に直接攻撃を仕掛けられない場合は、近くにいる手頃な、口答えをしない人でもいい(かわいそう!)。相手を打ちのめすことで、この恥辱が和らぐ。それはどうしてか。
恥の定義を再び思い出そう。「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛み」。つまりは自分が周囲のどんぐりに比べて小さくなってしまったような状態である。ということはそれを解消する最も手っ取り早い手段は、周囲のどんぐりをハンマーで叩いて低くしてしまうことなのである。これって政治の世界ではよく見かけるよね。政治家が記者会見で記者たちに鋭い質問を浴びせられると、逆ギレするのだ。沖縄のN知事が「それって公約違反じゃないですか?」と記者から質問を浴びて「何が聞きたいの!!」とキレたというニュースをネットで読んだ。これなんかいい例だよね。
 逆切れというのは間違いなく、最近の(私にとっては「帰国後」の)言葉だが、これってまさに、恥辱を解消するための方法としての怒りを表現するための言葉のように思える。ウィキペディアで見てみよう。
「逆ギレ(ぎゃくギレ)とは、対人関係において、何らかの迷惑を被った被害者が迷惑を与えた害者に怒りの感情を表している(つまり、相手に対してキレている)とき、加害者が自分が怒られていることに耐えきれずに、開き直り的に被害者に向かって逆に怒り出す現象を指す俗語である。」(ウィキペディア{逆ギレ}の項)
もちろんここに恥や恥辱という言葉は出てこないが、なぜ「自分が怒られていることに耐え切れない」のかを考えると、それはその恥の感情が耐え難いからだ。ここで恥をかかせた相手に怒る(逆ギレする)為の合理的な根拠 rationale は何もないことが多い。それでも本人にとてはそれでもいいのだ。沖縄のN知事が「何を質問したいの!」と声を荒げた時も、記者は確かに質問はしているのだ。それに対して「質問しろ!」は意味が通らない。それでも怒ってしまう。というのはそれほど恥辱は辛い体験だからだ。そして怒りは(当座は)それを確実に軽減する。自分の風船が侵害されたときは相手の風船を侵害し返す。そこに確かな道理などない。相手を見かけ上凹ますことができればそれでいい。
 それではどのようなとき逆ギレが可能なのか?それは相手が逆ギレに対する反撃をしてこないことが予想される時である。それは相手の立場が弱かったり、燃焼だったり、地位が下だったりする場合であり、こちらを怒らせることが明らかに相手の不利につながる場合である。というか逆ギレはそれが見て取れる時に初めて可能となる。それ以外の時は、人は自己愛の風船をつつかれた時には恥じ入り、それが続くと抑うつ的になるのである。
コフートの「自己愛憤怒」
以下は引用。
かつて精神分析家コフートは「自己愛的な憤りnarcissistic rage」という言葉を用いてこの種の怒りについて記載した。最初私はこの種の怒りはたくさんの種類の一つに過ぎないと思っていた。ところが一例一例日常に見られる怒りを振り返っていくうちに、これが当てはまらないほうが圧倒的に少数であるということを知ったのである。それこそレジで並んでいて誰かに横入りされた時の怒りも、満員電車で足を踏みつけられたときの怒りも、結局はこのプライドの傷つきにさかのぼることが出来る。自分の存在が無視されたり、軽視されたりした時にはこの感情が必ずといっていいほど生まれるのだ。たとえレジで横入りした相手が自分を視野にさえ入れていず、また電車で靴を踏んだ人があなたを最初から狙っていたわけではなくても、自分を無の存在に貶められたことがすでに深刻な心の痛みを招くのだ。ましてや誰かとの言葉のやり取りの中から湧き上がってきた怒りなどは、ほとんど常にこのプライドの傷つきを伴っていると言ってよい。他人のちょっとした言葉に密かに傷つけられ、次の瞬間には怒りにより相手を傷つけ返す。するとその相手がそれに傷つき、反撃してくる。こうしてお互いに相手をいつどのような言葉で傷つけたか、どちらが先に相手を傷つけたかがわからいまま、限りない怒りの応酬に発展する可能性があるのだ。(「気弱な精神科医のアメリカ奮闘記」(2) より)。