2014年1月24日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(6)

(改訂段階なのでスピードがついている。)
そこで次の二つの問題、すなわち自己愛の風船が侵害された時の恥辱、それを防衛する際に動員される攻撃性といった問題に移って行く。そしてこの問題は、自己愛の風船のもう一つの性質、つまりその表面の敏感さ、という問題と深く関係しているのだ。
5.恥と自己愛
恥の感情とは何か?
自己愛の風船部分を侵害された時の痛みとして恥を理解したが、その痛みは、時には強烈である。社会的な場面で体験する心の痛みで、恥はダントツではないだろうか。大人が本気で怒る時、あるいは落ち込む時、この恥が関与してしないことの方が珍しいと思うほどだ。
 では恥は何か。一般的には、次のような定義を考えるとよい。
恥とは自己の存在が他人に比べて、あるいは理想の自己イメージに比較して弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである。
 ここで他人や理想的な自己イメージとの比較を強調してあるのには意味がある。自分がダメだ、と思うとき、人との比較はその踏み台になるような、その信憑性を増すような役割を果たす。
 自分と仲の良い、境遇の似た友達を考えよう。その友達にだけ喜ぶべきことが起き、自分にはそれが起きない時、おそらくこの恥の感覚は倍加する。「どうしてAちゃんはうまくいくのに自分は・・・」となるのだ。しかしべつにAちゃんと比べなくてもいい。例えばある学校を受験して、不合格になる。それだけで恥の体験につながるだろう。ただしそこにAちゃんは受かったのに、という要素が加わると、その痛みは倍加するわけだ。
 ところでここは脇道だが、「自分はダメだ」という意識には色々な「層」がある。恥には二種類ある、というより深刻な恥とさほど深刻な恥ではないものがあるのだ。例えば自分の××は人に劣っているという感覚。「××」にはその人の備えた属性が入る。容姿とか、学力とか、体力とか。ところが「自分は生きていく価値がない。たとえ容姿が十人並み以上で、学力も体力も結構優れているとしても・・・。という状態に人は陥ることがある。自分という存在そのものがダメだ、生きていく価値がない」みたいな人もいるだろう。こちらの方はより深く、より深刻ではないか。この二種類の恥の区別を、私は前者をエディプス的な恥、後者を前エディプス的な恥、と呼ぶことにより設けたのである。数年前かな。
 さてこの恥と自己愛の風船の話に戻る。どうして自己愛の風船を少し侵害されるだけでこの恥の感情が出てくるのか。
 例えば自分の風船は、直径50センチだとする。(まあ、具体的な数値が出てきて変な話だが、もののたとえとして。)自分はそのくらい偉いと思っているのだ。その時にそれに1センチ侵入してくるようなことが起きた。目下の挨拶の際の頭の下げ方が若干足りなかったのだ。すると「俺って、50センチえらいのに、それ以下って事?俺ってダメなの?」となるのである。
 50センチが49センチに扱われることで「(他人に比べて)弱く劣っている」のはどうしてか。それは自分の評価や他人が見る目がもう50センチのレベルに設定されているからであり、それより小さくなれば結局「なんだ、俺ってダメじゃん」ということになるからだ。
 もう旧年中の話だが、例えば楽天の田中投手が24連勝した。もう彼はカリスマである。ハードルは上がっているのだ。すると今年のペナントレースの試合でちょっとでも打たれると、「田中ってダメじゃん。フツーのピッチャーみたい。」となる。(あ、彼はメジャーリーグか。)
 あるいはイチローが3打席連続して凡打に倒れる。「イチローって案外ダメじゃん。」その評価を下す人間といえば、ごく普通のファンで、ピッチャー図マウンドから投げてもキャッチャーまでワンバウンドになってしまうし、打席に立つとプロのピッチャーのたまに腰を抜かしてしまうだろう。それでも一流選手を「ダメじゃん」と一刀両断だ。そして選手自身も「俺ってやっぱりダメかも」となる。「24連勝自体がまぐれで、いま本性が出ているのかもしれない。」そう、「俺はダメかも」は私たちの心の底に常にあり、それがバレてしまったという感覚を生むのだ。
ところで昔私はある図式を書いた。この図式見に見られるように、自己像とはしばしば二極化している。「ダメな自分」(恥ずべき自己)と「イケている自分」(理想化された自己)と。そして日頃は両方をクルクリしている。


ところが時々ズドーンと「ダメな自分」に落ちてしまう。ではどうやって「ダメな自分」が出来上がるかといえば、一部にはある種の突出した体験があり、そこで形成されるのだろう。これはもっと言えばトラウマ体験に近いものかもしれない。友達から馬鹿にされたり、親からきついことを言われたり。「お兄ちゃんは優秀だけれど、お前は出来損ないだね。」とか。これは数ある暴言の中でも突出したものとして記憶に残る可能性がある。ただしそればかりではない。自分のことを考えてみよう。私には極端に馬鹿にされたという体験はない。親は私にその種のメッセージを出したことはない。(親の自己愛がそれを抑止しているということは非常によくある。)しかし「ダメな自分」は時々頭をもたげてくる。これは生来の気弱な性格と関係があるらしい。新しいものを恐れ、尻込みするという傾向は生まれながらのものである。
ともかくも50センチの大きさの風船を抱えた私は、周囲がそれに見合った扱いをしてくれないと「俺って本当はダメなの?」が頭をもたげて非常に辛い。これが恥の感覚である。
ところで昨年のある日、変な夢を見た。どこかの学会に出ている。2日間くらいの会期かな。ブンセキ学会みたいだ。いくつかの出番がある。そのうち大部分を無事に終えて、最後のコメンテイターとしての発表の前に気が抜けてしまった。気がつくと発表の時間は確実に近づいているはずなのに、会場のどこで何時からかを把握していない。発表原稿さえも今にも見失いそうである。焦って会場を探すが、なかなか見つからずにバタバタする。「俺ってダメだあ」。ようやく目的の会場を探し当てて入ると、司会者が「ちょうど発表者が登場しました。では早速・・・・」ということになってしまう。焦って壇上に上がり、原稿を見つけ出してコメントを読み出すが、発表自体を聞いていないので、頓珍漢なことを言ってしまう。すると会場がざわつく。司会がまた気を遣い「岡野さんはちょっと忙しすぎて発表内容を間違えているようです」といい、私は「すみませんでした・・・・」と恥じ入り、謝る。その時の感覚。実際に自分が発表に穴を開けてしまった時のこと(と言ってもこれも夢の中だけのことだが)を夢の中で思い出している。人が「あの人、この間に続いて二回連続してすっぽかしたよね。前はそんなことなかったよね。最近オカしいんじゃない?・・・・」それを言われていることを想像した時の感覚。これこそが恥だ。そしてそれは半径50センチの私の自己愛の風船にちょうど見合っているのである。
 そこでなぜ私の恥の感覚は半径50センチの私の自己愛に見合っているのか? 考えてみれば私はそのようなコメンテイターとして指名され、壇上に昇るようなこと自体を本来は望むべくもないかもしれない。しかし幸いにもそれだけの役割を与えられた(あくまでも夢の中での話だ)。私の方にも「そうか、私はコメンテイターなのだ。しっかり仕事をしなくては。少しは意味のある発言もしたい。若くて駆け出しで何も知らない時の私とは違うのだから」というような自負がある(あくまでも夢の・・・)。
もうちょっと別の例を出そう。この間大リーグのイチローの番組をやっていた(もう去年のことだ)。先シーズン4000本安打を記録した後に、スタメンに起用されず、消化試合の代打に回された時の屈辱感について。彼ほどに業績があるバッターの自己愛の半径はきっとかなり大きい。すると大リーグの舞台で打席に立つという、並の野球選手にとっては到底望むべくもないチャンスも、彼には恥辱体験になるのだ。それはあくまでも彼の大きさの自己愛の風船にとってそうだ、というわけである。ほかの人にとっては大きな誇りとなる体験でも。そして代打として登場して凡打した時のイチロー選手の体験した恥辱は、プロのマイナーリーグの選手が地方の試合に出て凡打した時の恥辱と質的には同様なのだ。ただし後者の場合の自己愛の風船はかなり小さいはずである。風船の大きさにかかわらず、恥辱が体験される、という例。
「じゃ、恥って何?」ということを思い出すと、私は次のように書いた。恥は「自己の存在が(他人に比べて)弱く、劣っているという認識に伴う強烈な心の痛みである」と。そして恥はその人がどの程度NPDを発達させても、どの程度風船が大きくなっていても、不可避的に体験される。自己愛の風船の直径が10センチでも、100センチでも。その風船に侵入してくるものを受けてまず体験されるのは「俺ってダメかも・・・・・」という恥辱であり脅威である。それは昨日紹介したあの「恥ずべき自己」と「イケている自己」のルーレットが回って「恥ずべき自己」に転落するという体験ということになる。人間の心はそのようにできているのだ。