2014年1月23日木曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(5)



自己愛の風船が自然に膨らむ理由
 
自己愛の風船が自然に膨らむとしても、もちろん何の理由もなく大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすい、ということも意味する。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。しかし大体は地位は頭打ちで、上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。
 アメリカの研究で、高校生100万人にアンケートを取ったところ、「自分の指導力は平均以上」と答えた人が70%だったという。もちろんアメリカ文化だからそうであって、日本の場合は違うという説もあるかもしれないが、まあある程度は我が国にも当てはまるとしよう(というより私の自己愛の理論は、別に日本社会について限定的に述べているわけではない。)これは人はほっておけば、自己評価を「盛る」傾向と考えることができる。人は実際より自分をイケていると思いやすいのだ。
どうして風船が膨らむか?それは単純に人が「自分は他人より優れている」という認識を持つことが快感を生むということなのだろう。ではそれが快感でない人はどうだろうか?もちろんそうでもない人がいる。百田尚樹氏の「永遠のゼロ」に出てくる主人公のような人はそうかもしれない。しかし私たちは対人関係の中でそれを磨いていくのである。そして偉そうにすることは圧倒的に「身体的にも楽」なのである。
 例えば私の立場で学生と会うときには、彼らの多くは畏まった態度をとる。(何しろ私はキョージュだから仕方がないのだ。)彼らは椅子に深く腰掛けず、足も組まずに背筋を伸ばす。その話を聞く私といえばリラックスしきって、椅子に体をあずけた姿勢で話を聞く。(言語道断だ!!学生たちよ、ゴメンネ)なんて言ったって、体が楽なのである。
 例えばメールを出す時もそうである。私は目上の人に出すメールにもちろん気を遣う。失礼の無いように、「恐縮致します」的な文言を付け加える。それに比べて学生に出すメールは「じゃ、よろしくね。」みたいな感じ。手を抜くのである。態度が偉そう、という時はたいていはこのこの脱力を意味する。昔どこかで、省庁のキャリアーはノン・キャリと話すときは足を机に投げ出して聞くのが「お作法」だと書いてあった。机に足を載せる。アメリカではよくやってたな。ひとりでいるときである。足を体より上にあげるって、キモチよいのだ。安楽椅子にオットマンもついているではないか。
 結局何が言いたいかといえば、人の自己愛の風船は、直接身体的な安楽さを伴っていることもあって、膨らんでいくものと考えられるということだ。ということはとても対人的なのだ。自己愛の膨らみはおそらく、その人が今誰といるか、ということにとても影響しているわけだ。人間は基本的に怠惰にできている。文明の進行は、人がいかに手を抜いて、つまり「便利に」仕事をしたりレジャーを楽しむことができるか、という方向性を必ず含む。以前は本屋さんに出向いて買っていたものを、今はパソコンでワンクリックで自宅まで届けてくれるんだぜい? そして対人関係においても、エラくなるとは、対人関係で手抜きをしてもいいということを意味する。
風船が膨らむ際の原則
ここでこれまで述べた自己愛の風船の膨らむ仕組みについて、箇条書きにしてまとめてみよう。
1.自分が(他人に比較して)偉大だという感覚は、それを許容する社会的な環境とともに自然に増大する。
2.その増大は、それを制限したり否定したりするような状況により縮小する。
3.それが侵害されたとの感覚は、一瞬の、心の痛みを伴った恥の体験の直後に、侵害した人への攻撃が許容される範囲において、怒りや攻撃として発言する。
4.侵害者への攻撃が不可能な場合には、恥辱として体験される。
ちょっと解説が必要であろう。まず1.について。これは風船が膨らむという議論であり、結局NPDは人生の後半になって発達しやすいということだ。何しろ高崎山の猿でさえ年功序列だという。年老いても「長老」として敬愛されるとしたら、年をとれば取るほどエバっていられるということになる。逆に子供でナルになる環境はない、ということか?いや待てよ、子ども同士の間で序列があるな。そう、子供の世界ではそれなりに風船を膨らます子が出てくる。クラスで俺が一番勉強が出来ると思っている子だとか、アタシが一番美人よ、と思っている子だとか。しかしそういう子って、絶対先生の前ではいい子になりはしないか?これは1,2の両方に関係するが、彼らは驚くほど使い分けをするのだ。
 もちろん1.の原則に従わない人がいてもいいだろう。でも従わない人は、例外的に性格が優れているのだ。それこそ高貴な家に生まれ、何不自由のない生活をしていたにもかかわらず市井に出て行ったブッタのように。条件さえ従えば8歳の子役でもおとな顔負けのように自己愛的になるということはかつて示した通りだ。そこには二つの可能性がある。第一は人よりすぐれて、チヤホヤされることを知らない人。第二はそうされつくして、それに疲れて虚しさを感じた人。第三にはチヤホヤされることに喜びを見いだしつつ、それを見つめる目を持ち、周囲への配慮を忘れなかった人。第一の人は危険である。これから風船が膨らむかもしれない。第二の中にはアイドルとして一世を風靡しながら、主婦になってしまったあの「菩薩」とも称される人、第三には私の頭の中では石原裕次郎がイメージとして近い。最近いくつかの機会に発表し、このブログでも書いた西郷隆盛もイメージとしてはここに入る。
2 「その増大は、それを制限したり否定したりするような状況により縮小する。」について。これはやはりすごいことだ。周囲に対して威張り散らす立場から、自分より「上位」の人を目にすることでこびへつらう立場に一瞬にして変身できることを意味するからだ。これってやっていて恥ずかしくないのだろうか。8歳の子役だってそうすることは紹介したが、これって普通恥ずかしくないだろうか? 年齢のことはいったん置いておいて。ということはこれが出来るほど「面の皮が厚い」人がナルになれるということなのだろうか? 
 8歳の子役Aちゃんの例で面白いのは、おそらく挨拶をされた側のS社長もまたナルなのである。だからAちゃんに露骨に挨拶をされ、チヤホヤされると文句なく嬉しい。その気持ちをおそらくAちゃんもよく汲み取っている。その意味ではよく空気を読んでいる。自己愛を満たされていい相手からはそれを享受し、満たす相手にはそれを提供するという「自己愛の原則」(そんなの利いたことがないが、今作った)に自然に従うという意味では彼らに戸惑いや迷いはないのだ。ある意味ではすごくわかりやすいし、考えて見ればサル社会もそれ以下の動物の社会でも皆やっていることなのだ。(このブログのどこかでハダカデバネズミのこと書いたっけ?一度テレビで見ただけだが、強烈なのだ。)
 この2について思い出すことがある。むかし梶原一騎氏の自伝を読んだことがある。そこに彼が傷害罪か何かで捕まって収監された時の体験が書いてあった。梶原一騎といえば「巨人の星」や「愛と誠」などの数多くの人気漫画の原作者として名を知られたとともに、彼自身が極真空手の猛者として知られ、当然のことながら態度もデカく、盛り場で毎晩のように豪遊し、周囲と恫喝し、Nの典型のような人だったと理解している。しかし彼が刑務所に入り、ほかの囚人と同じような生活を余儀なくされると、それこそ冷暖房もないような環境で整列し点呼を受け、それまでの生活とは180度違う、屈辱に満ちた生活を送るようになる。すると今度は毎食の献立を気にし、懲役により得られずわずかな現金を持って、刑務所の内部にある購買部でチマチマと何を買おうか、ということを考えることが楽しみになったと書いてあった。彼の限りなく膨らんでいたであろう自己愛の風船は一瞬でしぼみ、しかもそれで自殺をしたくなったりするわけではない。
 ここで元の本を読み返さずにうろ覚えで書いているだけだが、読んだ当時は「梶原一騎ってすごい、ただものじゃない」と思った。しかし今はあまりそうは思わない。人はナルシシズムの風船をこうやって萎ませることもできる。その能力がないと、下手すると自分より強い人間の風船を傷つけることになるではないか。ナルシズム人間は、同時に偉大なるゴマすり人間でもないと存在できないのではないか。
 この変わり身の早さは一種の本能か。それとも学習効果か。おそらく両方であろう。動物において、闘争反応から逃避反応へは、それこそ一瞬で切り替わらなくてはならない。敵が自分より強いと判断した瞬間に、逃げに転じるのだ。そうでなくては生き残ることができないのだ。それと同時に下を力で支配する人間は、上の姿が現れた瞬間にはすり寄ることをいとも簡単に行う。すり寄りやゴマすりは「昔取った杵柄」だからだ。梶原一騎だって、売れない作家時代や、空手の白帯時代の下積みを体験し、一瞬でそのモードに変わることもできるのだろう。(するとこのモードに変わるのに慣れていないであろう有名子役などはやはり将来苦労するのかもしれない。)
3.「それが侵害されたとの感覚は、一瞬の、心の痛みを伴った恥の体験の直後に、侵害した人への攻撃が許容される範囲において、怒りや攻撃として発現する。」「4侵害者への攻撃が不可能な場合には、恥辱として体験される。」について。
この34、実はこのエッセイの最重要部分である。そしては同時に論じられなくてはならない。