2014年1月22日水曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(改訂)(4)

自己愛の風船は膨らみ続けるというテーマは、実は今日の「獲得されるパーソナリティ障害」というテーマにも繋がる。そのテーマに移行する前に、自己愛の風船の敏感さという点についてもう少し触れておきたい。これは自己愛と恥の関係性という今心理の世界でかなり話題になっているテーマでもある。
4.獲得される病理としての自己愛パーソナリティ障害
(ここの記述は、すでに書きためた素材をかなりの量持って来ることが出来る。)
まず最初に私が主張したいのは、自己愛パーソナリティ(以下NPD)は、パーソナリティ障害(以下PD)であってそうでない、というたぐいのものである。そもそもPDの中には小さい頃形成されて、一生続く、という法則に当てはまらないものが多いが、NPDも(一部を除いては)その例外が当てはまるようである。
 PDとはみなさんもよくご存知のとおり若い頃に形成されることになっている。ちょっと極端に言えば、「三つ子の魂」というわけだ。こんどのDSMVにも書いてある。「[PDにおける]これらの行動パターンは、典型的には思春期や成人期のはじめに見られ、時には子供の時期に見られる。」でも本当にそうなの? NPDの場合、人生の後に見られるんじゃないの、というのが、まあわかりやすく言えば私の主張なのである。 
そこでこの「パーソナリティイコール三つ子の魂」説について。私はこの考え方にちょっと疑問があるのだ。と言って全面的に反対ではない。
 4,5年前に中学時代の同窓会に出た。結構衝撃的な体験だ。出会った瞬間は、どこのオヤジやオバサンかと思う。どこかの老人クラブに連れて来られた感じ。しかし「何だ、田邉君か!ずいぶん変わったなあ!」などと一人ひとり確認していくうちに、タイムスリップでもしたかのように、昔のクラスメートになっていった。その時であった何人かの友人の立ち居振る舞いが、中学時代とほとんど変わっていないのに驚いた。もちろんすごく変わったと感じる連中もいた。しかし何人かについては、変わったのは体重や皺の数や髪の毛の量だけであり、あとは中学時代とそっくりそのままという印象があった。人柄ってもう中学時代にはかなり出来上がっている部分が大きいのだ、と考える理由である。この点に関してはDSM-Vに賛成だ。
 しかしそうでない場合も少なくない。大人になってすっかり化けてしまうということもある。よく後に政治家や芸能人になった人の母校を尋ねるという企画があるではないか。すると近所の年配の人々から「あの子が政治家になるんて、全然想像もつかなかった」などというリアクションに出会ったりする。そう、人は思春期以降大きく変貌を遂げてしまうことがあるのだ。
 もちろん話し方や仕草などについては思春期以降人はあまり変わらないのかもしれない。でも話のコンテンツや迫力が違ってくるのだ。例えば先ほど述べたクラス会で、中学時代には非常におとなしく、はにかみがちなある女性が大変貌を遂げていたのには驚いた。彼女は結婚して子供を持ち、ご主人との関係でいろいろ悩んでいた。そのうえ子どもの教育のことでもいろいろ考えるところが多かったらしく、自分の人生経験について話すときはとても饒舌で自信に満ち、その意味で別人に変貌していた。でも目線のやり方や優しい感じ、独特の気配りは中学時代と少しも変わらなかった。
 とにかく私はパーソナリティが三つ子の魂の延長だ、という考え方について疑問を唱えているわけである。パーソナリティについてもうひとつ驚くことがある。それは先輩か後輩かにより、あるいは年上か年下かにより、その人の印象は全く違ってしまうということだ。例えば上級生は普通は気安く下級生に接することが日本では少ない。中学に入った途端に、上級生が「さん」づけになって戸惑ったことを皆さんは覚えているかもしれない。学生時代を通して、そして仕事を持っても若手といわれた時代を通して、年上ないしは先輩は決して必要以上に打ち解けないのが日本人の傾向である。
 私はこれをアメリカでの体験との比較で言っている。アメリカでは英語が「究極のタメ語」であるために、年上、年下、ないし先輩、後輩ということで態度が変わるということが少なくとも日本社会ほどではない。一、二年先輩でもファーストネームで呼び合うのが普通なのだ。すると人柄というのは、後輩から見るとより「大人っぽく」見え、先輩からは「子供っぽく」映るということになる。
 例えば私の体験では、30歳代の精神科医は概して「幼く、未熟で、子供っぽい」という印象を持つが、医学部を卒業したての頃の30台の精神科医たちは、自分より10年程度のキャリアーを積んでいて、本当に大人に見え、かつ実際に怖かった。とても彼らが同じような人種とは思えないのである。私のこの印象は大げさかもしれないが、パーソナリティを他人に与える印象という視点から考えると、日本人は誰に接しているかによりその見え方を相当に変えているのだ。そしてそれを如実に表しているのが、そこで用いられる言葉遣いの違いなのである。
それとこの問題、自己愛パーソナリティについて論じる際にも出てくる。というのは自己愛パーソナリティは、誰に対しても出るのではなく、自分に対して後輩、年下に出るのが典型的だ。横暴で独善的な典型的な自己愛的係長は、部長の前では飼い犬のような振る舞いになる、というのが普通なのだ。
コワモテは基本的に照れ屋で恥ずかしがり屋である
私は年齢のせいもあり、あまり上に怖い人は少なくなってきている。つまり怖がられている人々が私と同年代になってきているので、彼らの素顔を知ることになるわけだ。これは面白い体験である。しかしそれ以外にも「怖い人って実は~なんだ」ということが職業柄見えてきて面白いと思っている。私の関心は一貫して恥の感情が人の振る舞いや感じ方にどのような影響を与えるかということであり、これは精神科医として仕事をしていて毎日確認していることだが、コワい人って、案外弱い、ということを痛感するようになった。
 だいたい男性は、年とともに怖い顔になっていく。それは皺が増し、顔の凸凹が増すからだ。大体人間の顔は、幼い頃、若い頃はつるンとしている。これじゃ迫力は出ない。(頬に刀傷などがあればそれでも違うだろうが。)そのうち陰影が増してくる。特に多少ブサイクだと、もっと怖くなる。そのうえ不愛想だと笑顔を作ることが少なく、ますます迫力が増してくる。これは宿命といってもいい。
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台を超えた男性は、だから仏頂面をしているとだいたい怖い存在に見られるのだ。そしてその男性が社会的な経験や地位を持つと、もっと怖くなってくる。年配の大学教授、政治家、上司がにこりともせずにいると、周囲はコワくて敬遠しがちになる。ところが当人は実ははにかみ屋だったりして、にっこり人に話しかけられないという事情があったりする。
自民党の○○代議士が奥さんに次のようなことを言われた、という記事をどこかで読んだ。「あなたは口下手で愛想がないから人から怖がられるのよ。もっと笑顔を見せなさい。」
多少私なりに脚色が加わっているだろうが、だいたいこんな内容だった。面白いのはコワい男性が実は人見知りだ、などの正体は、奥さんには完全にばれているということだ。そしてそれを言われた、実際に非常にコワモテの○○代議士が、何も言い返せないということだ。ということは実際人見知りだったり気弱だったりするということなのだろう。
実はこの事がもっとはっきりしているのが小沢一郎さんなのであろうが、彼のことはこれからたくさん書く予定である。
人見知り、とは対人緊張が強いということだが、この傾向はおそらく幼児期にはかなり決まっている。中には思春期を過ぎてから急速にその傾向が出る人もいるが、その傾向はその後は一生変わらない。その様な人は対人場面がぎこちなくて、出来るだけ一人でいたい。しかし自己主張をしたり、仕事で人と会ったりするときは別のスイッチが入るので結構出来たりする。人見知りの人は、特に取り立てて用事がなく、しかし日常で時々接するような「半見知り」の状態の人に、特にその傾向が現れやすい。仕事で、すなわち課題や目的がはっきりしている時は出来る会話が、課題のない対人状況ではぎこちなくなってしまう。
 それでも若い頃は、あるいは若手の時は先輩や年上や上司に対して愛想がないわけには行かず、結構無理して人に話しかける。気に行った女性には無理して声をかけることすらやってのける。ところがパートナーも決まり、仕事にも慣れて職場での地位も固まり、歳をとり、えらくなってコワい顔になると、目上の人が少なくなる分だけ「平気で恥ずかしがり」でいられるようになる。つまり人見知りが放置された状態になる。自分に「人に不愛想でいちゃだめだよ」と突っ込みを入れてくれる人は、カミさんか故郷の年老いた母親くらいしか居なくなる。(たまたま父親が存命でも、父親もまた不愛想だから、そのようなアドバイスはできない。)
 さてこの「強面イコール人見知り」説は、私の中では既に自己愛と恥の議論に入っているのである。強面人間がその面相を崩さないのは、周囲によってそれが許されるからだ。人に対して傲慢で横柄でいられるのである。これは自己愛、ないしは自己愛の病理、すなわちNPD(自己愛パーソナリティ障害)の状態である。ここで自己愛とNPDを分けたが、これは実は微妙である。DSMではそれが障害disorder であるためには、それが自己や他人を苦しめていることが必要だが、NPDは周囲が困っていても本人が困っていないことが多い。そして周囲も文句を言えない立場にあるとすれば、一見「誰も困っていない」ことになる。部下や生徒はその人の表情や身振りに敏感になり、その非言語的な意図やメッセージを読み取ろうとする。本人の口下手、人見知りが自己愛の病理とうまく会い、本人をますます怖く見せる。これは自己愛の病理と人見知りの相乗り効果である。
 ということで私の頭に浮かぶのが小沢さんだ。あるエピソードについて、何年か前に読んだことがある。(この種のエピソードは私の記憶に多く残っているのだが、もちろん典拠を示すことは無理である。それにかなり私なりの脚色が入っている。)あるとき小沢さんがある後輩の政治家と会っていたが、強面を崩さずに打ち解けず、怖い雰囲気だったという。ところがふとしたことからその政治家の出身も岩手県だと分かると、「なんだ、あんたも岩手出身か!」と小沢さんの表情が急に変わってしまい、すっかり打ち解けた雰囲気になったという。何だこりゃ。小沢さんの方も相手を警戒して、というか対人緊張気味になっていたから堅苦しい雰囲気になっていたということではないか。相手の正体がわかって(あるいは分かった気になって)一気に彼の緊張が溶けたのである。
 しかし考えてみれば相手が同郷の出身と知って打ち解けるって、どういうことだろうか?私も対人緊張は強いが、職業柄人と会い慣れているせいか、そして精神科の場合は特にこちらの打ち解け方が極めて重要なせいか、同郷出身とわかってさらに打ち解けるような延びしろはあまり残っていない。やはり小沢さんは変わっているなあ。
 小沢さんにしても、中川さんも(あ、書いちゃった)強面=人見知りの政治家は困ったものだが、別に政治家に限ったことではない。私の職業上、しばしば出会うがこちらの挨拶を決して返してくれない人がいる。しかし特に腹が立たないのは、その人が対人緊張が強いことを私が感じるからである。対人緊張が強いと、相手と目を合わすことすら億劫になる。挨拶を交わすことはもっと面倒になる。煩わしいのである。その上に年齢や社会的地位が上がると、「同僚と挨拶をろくにしないことでどうなっても構わない」という心境になる。そのまま更に年を重ねると、無理にでも挨拶をして愛想を振りまかなくてはならない人がとうとうゼロになってしまう。ただしそのような人でも一目を置いて気を使う必要があるとすれば・・・・カミさんくらいだろうか。
NPDが獲得されるPDであるという意味

これまでに論じた、「パーソナリティイコール三つ子の魂の延長論」への反論の一種と考えていただきたいし、「シャイな子供が大人になって強面になる」、というここ数日の議論とも関係しているテーマと考えて欲しい。私はパーソナリティ障害(いちいち書くのは大変だから、これからはPDと書こう)の中でNPDはある種の特別な位置を占めると思う。それはそのPDの表れ方が、とても状況依存的だということである。普通PDは三つ子の魂であるとともに、「いつどこでだれといても姿を現すもの」という常識がある。つまりその恒常性がその人の持つパーソナリティの一つの特徴というわけだ。ところがNPDはそれが場所を選んで出てしまうという点で、これらの条件が当てはまらない。だっていかにナルな人間も、上司やかみさんの前で傲慢でいられるだろうか? 以前にも書いたが、自己愛的な人間はかえって上司の前では極端にへりくだったりするのである。NPDは部下や生徒や患者の前でその本領を発揮する。自分より弱い立場にあると思われる人たちの前で威張り散らすのである。あの小沢さんだって、有権者の前では作り笑いを浮かべて非常に愛想良くなるのである。(ビートたけしが小沢さんと面会をした時の様子をネットで書いているが、その時も溢れんばかりの笑みを持って彼を迎えたという。)もちろん彼の師匠であるカナマル先生などの前では忠実な生徒であったのだろう。
 通常はNPDはそれを発揮できない事情のある人の前では封印するというのはとても重要な性質だが、もう一つNPDが恒常的でないと考える根拠がある。それはNPDの極みのごとく思われる人たちの若い頃は、パーソナリティとしてはかなり違っているのが普通なのだ。NPDの若い頃の姿は皆シャイであった、とは言わない。しかし案外普通の感覚を持っていたり、人に優しかったりする。
 もちろん人は子供時代、あるいは若い頃は周りにいる人間は年上ばかりで、NPDを持っていても発揮できないということはあろう。しかし私の考えはむしろ違う。NPDはそれを発揮できるような環境に置かれることで、おそらく誰もがそれを持つようなシロモノなのだ、というのが私の極論である。
 ということはもちろん子供であっても、その環境さえ整えばNPD的になる。2、3年前であるが、ある子役スターについて書かれていたものをネットで読んだ(要典拠)。


S氏が本番前に楽屋を訪れた際、Aちゃんはほかの演歌歌手らをかき分けて、真っ先に『社長、お疲れ様です』と挨拶したんです。その場にいた多くの関係者がビックリしていましたよ」天才子役と言われるAだけあって、8歳ながらすでに芸能界で生き抜くための“常套手段”をも身につけているようだ。将来どこまで大物になるのか、いろいろな意味で今後の活躍が楽しみだ。 (ネットの記事からの引用終わり)

一世を風靡したその「天才子役」は、もはや●●(名)ちゃんではなく、○○(姓)さんと呼ばないと本人がムクれて返事をしないという。年端もいかない子に対して周囲が気を使い、○○さんと呼ぶ。おそらくそれが進むと「○○先生」と呼ばれなければ振り向きもしない、ということになりかねないだろう。この異常な事態がじつは普通になってしまうのは、それを許すような状況が出来上がった場合である。つまりその子役が局の視聴率の上昇に大きく貢献し、その意向や機嫌を気にしなければいけないほどの存在感を持った場合である。
 普通は子供はそんな状況には置かれない。しかし場合によっては置かれてしまうのが、天才子役、若手スター、子供の頃から才能を花開かせた幼少の芸術家、天才棋士などである。そう、NPDは獲得するPDである、ということは、人生の後半になり年をとってからなる、ということには決してならないのだ。不幸にして幼少時に獲得してしまうことがある。
 私はここで不幸にして、と書いたが、そうなるとかわいそうなことになる。どこかで読んだが(要典拠)囲碁の世界などでは、才能を花開かせた子供の棋士が、近所の碁会所などでは相手がいなくなり、並み居る年配の強豪をこてんぱんに破ってしまい、そこでは「先生」になってしまう。しかしこのような栄光を幼少時に体験してしまうと、その後の人生が大変だそうだ。本格的な囲碁の世界、例えば奨励会などに入れば、そのような天才ばかりゴロゴロいて、そこで順調に勝ち星を重ねることはできない。それどころか一定の年齢に達しないうちに四段にならないとそれこそプロにもなれず、学歴も持たない中途半端な「ただの人」になってしまう。これは幼少時にNPDになる機会を持った人にとっては耐え難いらしいのだ。人間の自己愛は、無限に膨らむ風船のようなものだ、ということは既に述べた。膨らむスペースがある限り膨らんでいく。大きくなったらNPDになる。その人がもともとNPDだったわけではない。人は環境によりNPDに化けるのである。