チャンチャン、のFさんの話の続き。
Fさんの話はかなり「盛って」ある。つまり彼の場合はあまり現実的ではない幸運続きなのだ。ひとつは、彼には陶芸の才能があったことだ。轆轤に向かっているとそれだけで時間を忘れる。そして彼の創作活動はそれなりに社会に受け入れられ、収入にもつながったのだ。(言っていなかったっけ?Fさんはオークションで月に数万円ほど稼いでいたのだ。)彼は年に一度だけれど、有明でカリスマとしてチヤホヤされているのだ。そしてもうひとつ、これは大事なのだが、チヤホヤされることでもっともっと、とはならなかった。意味見なく自己愛の風船を膨らませることがない。なぜなら彼は若干人嫌いなところがあるのだ。だからしばらく人と会っていると「もういいや」となりまた山に入っていく。だからひとり暮らしも苦にならない。Fさんには結婚願望もなく、家庭を築き、子供を持とうという気持ちもない。マイペースなのだ。
このマイペースという部分が何故重要かというと、「人並みに自分も~したい」「中学時代の同窓会に行ったら、皆それなりの企業に勤め、妻帯していたので、オチこんでしまった」という人は、本当の意味での幸せをつかめないからだ。自己愛の満足が常に他者との比較により成り立っている人は、自ら不幸を背負い込む人生を送っているようなものである。どこの世界に入っても、「上」を見ればきりがない。「上」に上がろうとすると上司にはペコペコしなければならず、その鬱憤は部下へ向かう。ところがFさんのような場合は、それがないから隣人を見て自分と比べて落ち込むということも少ない。無駄な自己愛の傷つきも少ない。
このマイペースという部分が何故重要かというと、「人並みに自分も~したい」「中学時代の同窓会に行ったら、皆それなりの企業に勤め、妻帯していたので、オチこんでしまった」という人は、本当の意味での幸せをつかめないからだ。自己愛の満足が常に他者との比較により成り立っている人は、自ら不幸を背負い込む人生を送っているようなものである。どこの世界に入っても、「上」を見ればきりがない。「上」に上がろうとすると上司にはペコペコしなければならず、その鬱憤は部下へ向かう。ところがFさんのような場合は、それがないから隣人を見て自分と比べて落ち込むということも少ない。無駄な自己愛の傷つきも少ない。
自己愛の風船のメタファーで考えてみようか。大部分の人間はFさんと違い隣の人と自分を見比べて生きる人たちだ。一般の人たちという意味でAさんとしよう。Aさんの風船はいつも膨れたがる傾向にある。まあそれは人間一般の傾向なのでFさんも同じなのだが。人に褒められたりちやほやされたりするとそれが少し膨れる。人にダメ出しをされてそれはしぼむ、ということを繰り返す。基本的にその膨張や縮小を決定するのは、周囲にいる人たちの反応だ。
Fさんタイプの人の場合は、「俺は~で行くんだ!」というようなものを持っている。その主観的な出来が風船の膨らみにかなり大きな要素となる。しかし他人からの評価も大きい。彼が見よう見まねで初めて捏ねた湯呑は、それなりにお師匠さんから褒められた。「初めての作品にしては、光るもの上がる。」なーんてね。(言うのを忘れたが、彼には陶芸の才能を見出してくれたお師匠さんがいたのだ。)もしFさんの才能をやっかんで、何を作っても「全然ダメや。もう陶芸は止しときなはれ」という人だったら、Fさんはもう嫌になってその世界から早々と足を洗っていた可能性すらある。あらゆる創造的な活動は、それを行っていることの純粋な楽しみと、それを評価してくれる人から与えられる自己愛的な満足の混合である。おそらく創造的な活動の喜びは、自分の才能が伸ばされていくという実感と、それを客観的に評価してくれるような何かが重要な役割を果たす。ピアノだったら、だんだんと難曲を弾けるようになっていくこととか、周囲の人からの評価など。
Fさんタイプの場合、ある意味では自己愛の風船の膨らみ方は、何らかの比較を前提としているのかもしれない。昨日弾けなかった曲が弾けた、とか。(あれ、いつの間にかピアニストの話になっているぞ。)昨日は褒めてくれなかったお師匠さんが、今日の湯飲み茶碗を見て(戻った、戻った)少しニコッとしたとか。それでもそれこそ日常に出会う人の全てから評価を得なくては気がすまないということではない。彼の中には実質的にその風船の内実を支えてくれている実感がある。「自分はこれをやっている限り、満足できるし、自分の力も限界も自分が一番よく知っている。だから人に馬鹿にされる恐れはないし、たとえ人に馬鹿にされたとしても、その人は私の陶芸の才能など知る由もないから、根拠のない中傷に過ぎない、だから自分も傷つかない。Aさん(つまり私たち一般)のように自分の中心に自信がないと、くだらないことで傷つく。
Fさんタイプの人の場合は、「俺は~で行くんだ!」というようなものを持っている。その主観的な出来が風船の膨らみにかなり大きな要素となる。しかし他人からの評価も大きい。彼が見よう見まねで初めて捏ねた湯呑は、それなりにお師匠さんから褒められた。「初めての作品にしては、光るもの上がる。」なーんてね。(言うのを忘れたが、彼には陶芸の才能を見出してくれたお師匠さんがいたのだ。)もしFさんの才能をやっかんで、何を作っても「全然ダメや。もう陶芸は止しときなはれ」という人だったら、Fさんはもう嫌になってその世界から早々と足を洗っていた可能性すらある。あらゆる創造的な活動は、それを行っていることの純粋な楽しみと、それを評価してくれる人から与えられる自己愛的な満足の混合である。おそらく創造的な活動の喜びは、自分の才能が伸ばされていくという実感と、それを客観的に評価してくれるような何かが重要な役割を果たす。ピアノだったら、だんだんと難曲を弾けるようになっていくこととか、周囲の人からの評価など。
Fさんタイプの場合、ある意味では自己愛の風船の膨らみ方は、何らかの比較を前提としているのかもしれない。昨日弾けなかった曲が弾けた、とか。(あれ、いつの間にかピアニストの話になっているぞ。)昨日は褒めてくれなかったお師匠さんが、今日の湯飲み茶碗を見て(戻った、戻った)少しニコッとしたとか。それでもそれこそ日常に出会う人の全てから評価を得なくては気がすまないということではない。彼の中には実質的にその風船の内実を支えてくれている実感がある。「自分はこれをやっている限り、満足できるし、自分の力も限界も自分が一番よく知っている。だから人に馬鹿にされる恐れはないし、たとえ人に馬鹿にされたとしても、その人は私の陶芸の才能など知る由もないから、根拠のない中傷に過ぎない、だから自分も傷つかない。Aさん(つまり私たち一般)のように自分の中心に自信がないと、くだらないことで傷つく。
健康な自己愛とは、自分に純粋な喜びをもたらせてくれるような創造的な活動を見つけ、それに携わることで自分を中心から支えられている状態である。