2014年1月11日土曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(27)

昨日、今日と寒い日が続く。まだ1月の半ば前なのに、なにか損した気分だ。あとひと月はじっくりこの寒さと付き合わなくてはならない。春が待ち遠しい。

「健康な自己愛」の再考
ちょっと概念の修正をしておかなくてはならないようだ。(ブログだからなんでもアリだ)。10年以上前の自分の論文を読んで、少し気が変わった。これまでの私の論述なら、私の言う自己愛は、自己保存本能に関するもの、動物的に備わっているもの、という印象を与えただろう。そして自己愛の風船の方はといえば、もっぱら他人との接点が問題になるようなあり方をするものとして論じた。でもスゴーく自己愛が強く、しかもその風船が侵害されないというケースもあるのではないか。一人で満足している場合。決して風船が邪魔されたり侵害されるおそれがない(あるいは非常に少ない)場合。それって一応健全は自己愛(の肥大?)ということになりはしないか?人に迷惑をかけないんだもん。
 私の知っているある中年男性Pさんは、毎日膨大な原稿を生み出している。そこには過去の哲学者も網羅しきれなかったほどの叡智が込められているという。彼はそれを当分人には見せるつもりはないというのだ。Pさんは見かけは割とみすぼらしい。彼は仕事(お掃除)をしたりしなかったりで、同居中のお母さんにお小遣いをもらう毎日だ。だからお母さんには頭が上がらない。それに仕事場では彼がそのような「才能」を知る人はいないので、彼にぞんざいに接する。それでもPさんのプライドはあまり傷つかないという。「彼らは私の才能を知らないから」というのだ。そして私と話すときのPさんは自信に溢れている。(Pさんは私が彼の才能を理解する一人と数えているらしく、私の前では堂々としているのだ。)それに彼のそのような「才能」のために、彼は人に馬鹿にされてもめげないような力が与えられているのである。
 私はこの種の風船のふくらませ方をすることで、人は幸せになれるような気がする。これは健全な風船のふくらませ方だ。実はここで述べたPさんは多少問題がある。私は彼の「作品」を見せてもらっていないが、あまり「大したことがない」可能性が大きいのである。もう少し言うとPさんの自分の作品の評価の基準は少し危ういのだ。ちなみに彼は私がアメリカで会っていた患者さんだ。しかしもう少し健全な例はないのか。
 頭に適当な実例が浮かばないので空想してい見た。空想 fantasy という意味でFさんということにする。Fさんは一流企業に勤めていたが、入社して数年間勤務した営業部門で疲れきってしまった。彼の成績は悪くはなかったが、同僚との競争は過酷を極めた。それがあるとき、陶芸の世界に目覚め、その面白さに魅入られた。それから仕事を辞めて田舎にこもって、近くの街のスーパーで品出しのアルバイトの職を見つけ、ほそぼそと生活をしながら思い切り陶芸の世界に打ち込むようになった。そこには無限の世界が広がっていた。彼は土の勉強をして、その地方の山で陶芸に最もふさわしい土を発見した。そこでは決してお金をかけずに宝の露天掘りをすることができるのであった(陶芸のことをうっすらしか知らず、想像で書いているので実感ないなあ。こんな話あるのかなあ。)。彼は生まれつき陶芸の才能があったらしく(生まれつきの陶芸の才能、って一体どんなのだ?)彼の作る湯呑は一部の陶芸ファンや陶芸オタク(そんなのいるんかい?)に熱狂的に受け入れられ、オークションを通じてそれなりの収入を得るようになった。
F
さん(せっかく名前をつけたくせにやっと使われた)は陶芸の世界以外には知られていないので、世間的にはただのスーパーのおじさんでしかない。身なりも構わないからどこに行っても目立たないし人も騒がない。でも秘めたる自信がある。Fさんに自己顕示欲がないわけではないが、年に一度お台場で開催される「全国湯呑フェア」(テキトーにでっち上げた)で熱狂的に迎えられ、カリスマ扱いされるだけで十分である。
 F
さんは満たされているからスーパーで若い上司に怒鳴られてもあまりコタエない。仕事が辛くても帰宅して轆轤(ろくろ。読めない人のために。)に10分間向かうだけでも気持ちが解消される。Fさんはひとり暮らしの寂しさを体験することもあるが、もし妻帯して料理やお掃除が上手な人と一緒になっても、おそらく彼の家の裏の納屋に膨大に溜まっている失敗作の湯呑(といっても彼にとってはまだまだそれらの価値が理解される時代が訪れていないだけなのだが)は一瞬のうちに廃棄処分になるだけだ。ということでFさんは今の生活で満足している。チャンチャン!