2014年1月13日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(29)

昨日はこどもの城で、合計5時間の講義だった。体力のない私にとっては重労働であったが、無事に終わってホッとしている。講義はなんどやってもなれない。明らかに向いていない。

自己愛の風船を飼い慣らす
しかしFさんになれない私たちはどうしたらいいか。大部分の私たちはFさんにとっての陶芸のようなものを見いだせない。人から特別賞賛されるようなことなど何も持たないのが私たちの通常のの姿だ。あるいはFさんのように他人と自分を比較しないという美徳を持たない。しかも私たちが時々出会うある種の人々については、「他人と自分を比較しない」どころではない。ターゲットとなるような人を常に探してしまい、その人が羨ましくて、憎くて仕方がないという人たちもいる。あたかもそれが生きがいであるかのように、その人を羨望し、そして憎しみを向ける。Envy (羨望)だからEさんだ。
 Eさんはだからといって大きな自己愛の風船を持っているわけではない。しかし状況が許せばそうする素質はもともとある。Eさんが持ち前の馬力で仕事をし(Eさんは人並み以上の能力をそなえていておかしくない)ある分野で力を発揮し、それなりの地位を築くと、彼の下で働く人が増えていくだろう。するとそれに相応して彼の自己愛の風船は膨らんでいく。するとEさんの部下にとっては結構悲惨なことになる。やたらと威張る。叱り飛ばす。ライバルの愚痴を聞かされる。Eさんの部下にとっては、能力があることはEさんの逆鱗に触れることになる。能力があるというだけで、Eさんの自己愛の風船を刺激するのだ。
 ただしEさんにそれほどの能力がない場合は、一介の平社員や家庭人で収まっている場合がある。すると配偶者や子供を相手にしてしか自己愛の風船を膨らませることができないだろう。すると家族は結構苦労することになる。家庭内での支配者。暴君。すぐ暴力を振るったり、自分の方針を押し付けたりする。これは実はとてもよくあるパターンだ。風船をふくらませたくても膨らませないでいる人達。これも結構厄介な人たちだ。一緒に暮らす人にとっては。
さて私はエッセイのこの治療論の項目を終えるに当たり一種の処方箋のようなものを書こうとしているのであるが、FさんになれないAさん、つまり私たちの大部分、あるいはEさんにとっての処方箋はどうなのか?
おそらくEさんのタイプは一生そのままなのである。自分を変えようという動機もないし、とにかく自分より優れた他人を見ることからくる苦痛や怒りと戦うことでエネルギーを費やしてしまう。もちろん自分の自己愛のシステムを見直すという、これから私がAさんたちに対して提供する処方箋(すごくエラそうで上から目線だな)

ということでAさんたちにとっての自己愛の治療は、やはり死生観と関連せざるを得ないと思う。ここら辺はモリタについて論じていたこととつながる。Aさんの自己愛の風船は、それが本来は得られなかったもの、天からの授かり物と考えることで、つまりイメージの世界である程度萎ませることができる。例のサラリーマン川柳「カミさんを上司と思えば割り切れる」は秀逸だが、他人(自分に対してもだが)に対してどのようなイメージを持つかで、体験は全く変わってくる。
 ただしNPDに対する治療論が私の中で今ひとつ発展しないのは、やはり彼らによって困らされているのは周囲であり、本人ではないということではないだろうか。自己愛の風船は膨らんでいく。それは当人にとっての快感原則に従っているからだ。人間の本性というべきか。それは突き当たるところまで行って膨張をやめ、あるいは収縮する。あるいはこの間の猪瀬さんのように一気にしぼんでしまう。それでも人は通常は生きていく。欝にでもならない限り。そして小さいなりの風船を保ちつつ生きていくのだ。なんか中途パンパな終わり方だなあ。