ブログの方は、いつの間にか治療論、という感じになっているが、論じ方としては二つである。一つは自己愛の風船をいかに飼い慣らすか。そしてもうひとつは、いかに健全な自己愛により恥の病理を克服していくか、ということだ。後者に関しては、実は昔の雑誌を整理していて、私が10年以上前にある雑誌に寄稿したままになっていたものが見つかり、読み返しながら浮かんだことである。「教育と医学」誌2002年8月号「特集・恥について考える」にそれは掲載された。少し長いが、全文を載せてみる。(所属も含めてそのままだ。)
恥と教育
Shawnee Community Mental Health Center
岡野憲一郎
「恥の教育」?
私が最初にいただいた題は、「恥の教育」ということであった。そこで恥と教育という、これまで私の中であまり結び付けたことのない二つのテーマについてあれこれ考えているうちに、そこにただならない接点があることに気がついた。そしてその目でこの「恥の教育」というタイトルを見直すと、これがどうもぴったりこない。というのは、「恥の教育」という言い方が、「いかに恥を教育するか?」というニュアンスをもっぱら与えるからである。
もちろんこれはこれで悪くないし、恥は知ってるに越したことはないだろう。「恥知らず」と呼ばれることは日本人なら誰にとっても屈辱である。それにこれはこのエッセイの一つの論点ともなるのであるが、教育の現場は恥の力を知らず知らずのうちに利用しているところもあるのだ。
しかし恥と教育の関係はこれだけでなく、もう少し複雑なはずである。過剰な恥の感覚を植えつけたり助長させたりしないことも教育の役割と考えるべきだろう。そこで私はこのエッセイのタイトルを「恥と教育」へと代えさせていただいた。
そこで私が見出した恥と教育のただならぬ接点とは何か?それは教育の場である学校や教室が、その隅々まで恥の力動が行き交う場面であるということである。具体的には、子供たちを突き動かしている中心的なもののひとつが、「友達や先生の前で恥をかくのではないか」という懸念や、実際にかかされた恥の体験なのである。これはおそらくは罪悪感よりも虚栄心よりも、愛情よりも嫌悪よりも強く彼らの行動を規定している可能性がある。
私はこのことを、時には私自身の日本での小中学生時代の体験を思い出しつつ書いているが、恥の文化といわれる日本においてのみこれが生じているとは少しも思っていない。むしろ米国での思春期病棟における臨床家としての体験を通し、そして小学生の息子が級友とかかわるのを傍で見ていて、彼らの体験に占める恥の位置がこの地でも極めて大きいことを実感しているのである。
結局子供の世界から大人まで、おそらく文化の差を越えて恥の感覚は普遍的なのなのだろう。恥は人と人とが社会生活を営む場面で、ある種の装置として存在している。この装置、という言い方は意味深長だが、後にもう少し詳しく述べることとして、その前にいくつかの基本的な点をカバーしておきたい。
はじめに - 対人体験とは
私は基本的には、対人体験、すなわち人が人と交わる体験は、多くの場合苦痛な体験だと考える。「人間は社会的な動物であり、常に群れているのが自然なのである」というのは嘘ではないとしても誇張がある、と言いたい。人の心はちょっとした揶揄や、差別のまなざしに傷つく。それは当たり前な反応である。人は他人が自分をどう観察し、どのように評価しているかを常に知ろうとするが、同時に自分たちも常に他人を観察し、値踏みしている。
そもそも周囲を観察することは人間の防衛本能に根ざしている。人は常に環境に注意を払い、他人に対して警戒したり適度な距離を保とうと試み、同時に自分との力関係を把握しようとする。また同時に人は周囲に同調することで仲間として認識されようとする。つまり周囲の人間と相互に観察しあい、探り合うことは必要なことなのである。そしてそのような視線の交錯する対人場面を心地よく感じないとしても無理のないことである。
その意味では対人体験における自意識は皮膚感覚のようなものである。皮膚が温度や湿度に敏感に反応するように、人も他人のまなざしを、時には痛みや快感を覚えつつ感じ続けるのである。それはむしろ生きていく上で必要なものといえる。
恥の問題について論じる前に、以上の点は押さえておきたい。私としては恥の体験をそれ自体はネガティブなものでもポジティブなものでもなく、人間の本性に根ざしたものであるという理解からいつも出発したいのである。
恥は一種の学習装置ではないか?
さてその社会的な意味での皮膚感覚が最も敏感になる時期が、精神分析学でいう「潜伏期」である。これは小児期に始まり思春期にいたるまでの時期(6-12歳頃)であり、「認知能力や身体的能力の発達に従って興味の対象を外界に求め、仲間の中で多くのことを学ぼうとする時期」(精神分析事典)とされる。(思春期においては別の意味で対人的な皮膚感覚が再び敏感になるのだが、それはまずおいておこう。)
潜伏期とは不思議な時期である。それは子供がその所属する社会の一員となるために必要なものを一心不乱に取り入れて行く時期である。人がこれほどに急速に学習をすることは、人生でこの時期を除いてはありえない。
語彙や言葉のセンスも、味覚も美意識も、文化的な規範も、この時期に最大限に吸収される。これは人間が種々の能力を獲得する上での臨界期と考えられている。言語以外にも、器楽演奏の技術も、特定のスポーツや芸能に関しても、この臨界期を逃しては決して得られない能力が多く存在することを私たちは知っている。
私はこの臨界期は大脳生理学的な変化と密接に関係していると見る。大脳皮質の神経細胞が有する樹状突起の数は生後6歳前後で最高に達した後に減少し、思春期にいたるまでに半減するとされる。これがまさに潜伏期に重なっているのだ。この時期にさまざまな能力や知識に関する神経ネットワークが急速に形成され、それに使用されなかったシナプスは消退していく。すなわちこの時期を逃してこれほど多くの神経ネットワークを獲得することは、大脳生理学的に考えてもありえないことになる。それがこの臨界期という意味である。
このような潜伏期の特徴を端的に表現すれば、それは子供達がお互いをコピーする時期となる。その時期の子供は、仲間と自分が同じものを身に付け、同じ音楽を聴くことに最大のエネルギーを費やす。逆に仲間と自分とのちょっとした違いは大きな焦りや不安を生むのである。
この仲間をコピーする志向性には驚くべきものがある。親が何度口をすっぱくして注意しても反応しない子供が、友人からいとも簡単に影響を受ける。たとえばこうである。
私の息子(12歳)は何人かのクラスメートと泊りがけの旅行をしたが、そこで普段学校では気づかなかった自分と友達との「違い」をさっそく発見したらしい。帰るなり彼は真剣なまなざしで、今日限りこれまではいていたブリーフ型ではなく、トランクス型のパンツでなくてはならない、と宣言し、妻を洋品店に走らせた。また腋臭でもないのに、匂い消しのクリームを塗らないと仲間はずれにされる、と主張して私たちを当惑させた。(欧米人に腋臭が多く、このクリームを塗って、その香りをさせていることが身だしなみということらしい。)とにかく息子が頑固で容易に人の言うことを聞かないと思い込んでいた私と妻には、この彼の行動の変化の速さは驚きであった。
潜伏期におけるコピーのし間違いは仲間の間ですぐさまチェックされるようである。ちょっとした発音の誤りとか訛りは、クラスで失笑の的になりかねない。そして間違いをした当人はそれに気づきさえすれば即それを恥と感じ、修正しようとする。このプロセスは子供にとってあまりに自然であり、この意味での異質なものへの気付きや排除はそのコピーのメカニズムと一体となっていると言える。これはしかし子供たちが「仲間はずれを探している」ということでは必ずしもないだろう。お互いをコピーして均一になるという子供の自然な志向性の、裏返しの現れと考えたい。
ちなみに仲間と自分が異なるということによる不快感を恥の感情と呼ぶのが適当かどうかに関しては、私には今ひとつ確信がない。仲間をコピーする機能が一種の本能のように備わっている以上、それが失敗した際に生まれる違和感や不快感は、感情というよりはもう少し生理学的な反応という気もする。それを表現する用語は見当たらないが、少なくとも私たちが恥と呼んでいる感情にかなり類似しているのであろう。
ところで潜伏期の子供がお互いをコピーし合う際に、同時に起きていなくてはならないことがある。それは子供同士がお互いの間にもともと存在している明らかな違いを無視することである。否認すると言ってもいい。教室にはデカもチビもいる。背格好も顔立ちも、人種も違う者同士が机を並べている。その彼らがお互いをコピーし合う際、最初から存在しているお互いの間の違いにはもちろん気がついてはいても、ほとんど頓着しないようなのである。(ただし性差に関しては別である。)
私は息子を見ていてもつくづくこのことを感じる。息子はクラスでただ一人のアジア人であり、あとは白人である。あれほど仲間をコピーするのに熱心な彼が、どうしてほとんどのクラスメート達のようになるために髪を染めたいと言い出さないのだろうか?なぜ一人だけ姿形が違うことで羞恥心にとらわれないのであろうか?
ここにもう一つの、恥の装置の巧妙さがあるようである。最初から存在していて、当人のコントロール外にあって変更不可能な違いについては、恥の装置は大胆に無視するのである。皮膚の色や髪の色はその例である。それはそれで一種の不変定数としてそこに存在するのである。逆にこれが簡単に変わってしまえば問題が生じる。たとえば金髪の子がある日髪を黒に染めてきたら、それはたちまち注目を浴びるし、当人に羞恥の感情を誘発するだろう。
こう考えると、子供が敏感に反応するのは、可能な範囲において、仲間がお互いが均一になろうとする意図を持っているか、あるいは逆にそれに抵抗しているか、ということらしい。このことは次に述べる集団に対する忠誠心の問題とも絡んでくる。
恥の装置と仲間への忠誠心
子供に「どうしてほかの子と同じ事をするの?」と問うた場合、おそらく彼らは当惑するだろう。彼らは多くの場合、それを考える以前に行なっているからである。しかしそれでも問い続けると、彼らはこう言うだろう。「だって自分だけ仲間はずれにされたくないから。」そして更に尋ねると、「同じことをしないと、友達を怒らせているような気がするから。」と言うに違いない。(これは実際に息子から返って来た答えでもあった。)彼らにとっては、仲間をあえて真似しないことで一人浮いてしまうことは、恥の感覚を生むだけでなく、仲間に対して挑戦しているというニュアンスが伴い、それによる仲間外れの恐れを招いてしまうのである。
このお互いの違いの認識、恥への恐怖、仲間はずれになることへの恐れの相互連動は非常に興味深い。これらの複雑な絡み合いが、教室で起きているのである。つまり変更不可能なお互いの違い(不変定数)は無視して、それ以外の部分でお互いがコピーをしあう努力をすることでその集団に忠誠を誓ってるかどうかを、子供達は常に相互にチェックしているのである。
さて本題からは多少外れるが、いじめの力動もこの集団への忠誠という文脈で多少なりとも理解できるだろう。ただしそれは忠誠を誓わない子が苛めの対象になるという意味では必ずしもない。苛められる対象はしばしばそれ以外の要素で恣意的に決まってしまう。転校生や学習身体能力の「異なる」子供などがその例だ。問題はそれがどのようにして維持されるかである。教室でいじめが生じている時は、いじめにあっている子供を助けるそぶりをすることは、そこでリーダーシップをとっている子供に対して、あるいはその教室の子供たちを支配する空気に対して挑戦をすることを意味し、今度は自分に矛先が向かいかねないということになる。こうしていじめる側に加わっている子供たちもまた凍りついているのである。もちろんいじめは不幸な現象ではあるが、これもまた相手をコピーして均一になろうとする子供の傾向の副産物と考えられないこともない。
ちなみに米国のように、人間がお互いに均一になる傾向に対抗する形で、個の独立や独立性を尊重する考え方が共存する社会では、少なくともこのような悲劇は日本ほどは起きないようである(後述)。
教育現場は恥を利用している?
さてこのような教育環境で、恥はどのように利用されているのであろうか?利用される、という言葉にはあまりよくない響きがあるが、私は恥自体を必ずしもネガティブなものとは考えていないし、それでも語弊があるならば、この文脈では「自意識」を利用している、という風に言い換えてもいい。
先ず挙げられるのが、クラスメートの前での叱責である。私の子供時代はほかの生徒の面前で教師から叱られることはごく日常的なことであった。小学生時代に恥をかいた体験というのはほとんどこれに結びついている。
小学三年生の頃、どのような事情からは忘れたが、クラスの三人の男児が悪さをした結果として、教壇に登って黒板に向かい、ズホンを下ろすように教師に命ぜられた。あわれなパンツ姿になった少年達は、クラスメート全員の見守る中で尻を叩かれた。これは強烈であった。自分がその三人の中に入っていないことに心底安堵すると同時に、自分がそのような形で叱責されることを心から恐れた。私にはそれは究極の恥の体験のように思われたのである。
この種の叱責は、子供の虐待にやかましい現在だったら、教育委員会で問題になりかねないのではないか?(少なくともアメリカではそうである。)それを今から考えても極めて温厚で思慮深い教師がしたのであるから、時代の流れを感じる。もちろん誰も先生に反抗する者はなかった。そのような場面で反抗するということ自体が考えられなかった。そしてこのような形での叱責の効果は絶大だったのである。
このように意図的に恥をかかせることによる叱責は別としても、学校の授業や行事は、ことごとく競争であり、出来ないものが明らかにされ、恥を体験するというプロセスであった。たとえば体育の時間がそうである。跳び箱、マット運動、鉄棒。一列になり次々と行い、出来るものと出来ないものが誰の目にも明らかになる。体育祭の時も校内マラソン大会でも、相撲大会でも水泳大会でも、出来ないことによりクラスメートや全校生徒の前で恥をかくという設定はいつでもあった。算数の計算競争もそうだったし、成績がいっせいに張り出される校内一斉テストもまた同じであった。
学校でこうして教え込まれることを、子供はどの程度自分自身のためのものと思って受け入れているのだろう。たとえば逆上がりが出来ることが、自分の健康にとって、あるいは将来社会に出るに当たって重要だと考える子供などいないだろう。彼らが歯を食いしばって鉄棒にしがみつき、懸命に地面を蹴る唯一の理由は、ほかの子供が出来るのに自分が出来ないことによる恥の感覚からである。教育の場とは結局は、この種の力を当たり前のように使って子供を均一化していくプロセスといわざるを得ない。
ちなみに米国においては、少なくとも教室における教育に関してはもう少し考慮されているようである。みんなの前で能力が劣っていることが明らかになるような状況は一般に避けられる。体育などの場合にも、一律にみなが鉄棒やマットをやらされて出来ない子は居残る、というようなことはない。しかしその結果として、例えば体育の授業は一種のお遊び、ゲームというニュアンスが強い。
教室における計算やスペリングについても同じであり、米国では出来る子が校外の特別な競技に参加する機会はあるにしても、出来ない子供が明らかに目立つようなことは起きないよう配慮されている。しかしその結果として個々の生徒の能力はばらばらで、中学生になっても分数の基本的な理解が出来ていない、という子供はクラスでざらにいるというのが現状だ。
結局ここでも私の立場は、恥のメカニズム自体はニュートラルなもので、それが過剰でも、過小でも、問題が生じるであろうということである。
恥に関する教育
さて恥と教育について考える以上、教育のもうひとつの機能であるべき、恥を克服することを援助する役割ということについても述べなくてはならない。しかし結局は、日本の教育はそのことに対してあまり役立っていないであろうと推測するしかない。教育が暗に恥の力を利用する側面がある以上、この問題について深刻に教育者側が取り組むことも不可能であろう思われる。ましてや教室で生徒との間でこの問題が正面切って扱われることは皆無ではないか?
結局自分の持つ過剰な恥の感覚を克服するのは、あくまでも個々の子供でしかない。そして子供はたいてい孤立無援である。ただし幸いなことに、子供は互いにコピーすること以外にも、喜びを見出すことがある。それは自分自身を見出していくことであり、自己の能動性や主体性を発揮することである。これもまた本能のなせる業であろう。自分には自分の世界があり、好みがあり、それに従うこともまたその子にとって快適なことになりうるのだ。
無論この自己の確立や主体性への願望は、仲間をコピーするというもう一つの衝動と容易にぶつかってしまう。大抵の子供は仲間の中で出る杭になりたくないだろう。ここで大げさに言えば、子供は人生の岐路に立たされるのである。そしてそれは潜伏期の終了が近づき、これまで不変定数であった自分の仲間との違いが視野に入るにつれて、ますます顕著になるだろう。子供は自分らしさを追求するという力に抗し切れなくなり、むしろその方に自然さを感じる。彼らは例えば一人だけ違う髪のカットをする。友達がカード集めに夢中になっているのを尻目に、ハンティングか何かの雑誌を持ち歩く・・・
ここで彼がユニークだといってむしろ友達の尊敬を集めるのか、それとも仲間はずれになるのかは予測不可能である。ただしその際におそらく非常に重要な点がある。それはその子供の自己主張が単なる虚勢や注目を浴びることを目的としたものではなく、彼自身に心地よさを与えていることである。これは彼が排斥されたりいじめにあうかどうかを決める上で決定的とは言えないだろうが、かなり大きな決め手となる。皆とは異なった道を歩むことが、その子にとって内的な一貫性を伴っていること、そしてたとえ仲間が離れても、その世界で喜びを見出し続けることが出来ることが、その子自身を内面から強く支えるのである。そしてその子の自己主張が仲間に挑戦することを本来の目的としていないということも、自然と周囲に伝わっていくだろう。そしてそれは他の子供達に対しても、自分自身を追及するよう勇気付けることになるのである。
恥を克服するのは、健全な自己愛や自己顕示欲である
さて以上は基本的には個々の子供の中に起きる内的なプロセスであり、おそらくそこに教育は関与しないであろうと述べた。しかしもし教室で教師と生徒が恥の問題について語るような機会があるのなら、以上の議論をもとにした私の次のような考えを参考にしていただきたいと思う。それは一言で言えば、深刻な恥を克服する上での決め手となるのは、本人の持つ健全な自己愛であるということである。
この自己愛という言葉はいろいろな意味で使われるが、ここでは自分を他人に表現し、評価を得たい、認められたいという願望であり、一種の自己顕示欲という意味で用いている。これは具体的にはその人の持つ負けん気、意地、プライドなどとして発揮されるであろう。
恥に関する常識的な理解の仕方からいったら、その予後を左右するのは恥の病理そのものの深刻さである、ということになるだろう。たとえば人目を避けたくて夜しか外出しないような人の方が、昼間の外出に耐えられる人よりその恥の病理は深刻であり、より克服困難である、という風に。しかしそれでは、その人が恥を乗り越えるバネとなるものを持っているかどうかという点を考慮していないことになる。そしてそのバネこそが、この自己愛なのである。
恥の病理の典型である対人恐怖は、一般の人々からいろいろな誤解を受けているように私は思う。その一つの典型は、「対人恐怖的な人間は引っ込み思案であり、自己顕示欲を持つどころではない」という考えである。ところが対人恐怖的な人でも自己を表現したいという強い願望を持っている人は少なくない。恥ずかしがりやなくせに目立ちたがり屋、という人は結構いるものである。
もう一つの誤解はその逆で、「対人恐怖は過剰で病的な自己顕示欲や自己愛の裏返しである」というものである。つまり過度な自己顕示欲や自己への期待が、それに失敗した際の恥の体験をより顕著なものにしている、というわけである。森田は対人恐怖のことを「負け惜しみの意地っ張り根性」と呼んだそうだが、これも似た路線といえよう。いずれにせよこの考え方によれば、自己愛は恥の病理を助長していることになってしまう。
しかし私は対人恐怖の人が時に見せる過剰な自意識や誇張された自己顕示も、彼らの自己愛が対人恐怖症状のために思うように発揮できないことから来る焦燥感の表現ではないかと考える。彼らが人前でとっぴで奇を衒った行動に出たり、突然強気に出て人と衝突して周囲を戸惑わせるとしても、それは彼らの満たされない自己愛の発する悲鳴のようなものなのだろう。
結局ここでの私の主張は、恥と自己愛とは別々の変数だということをご理解いただきたい。いきなり数学的な表現を用いるが、その議論の詳細は別の機会(「恥と自己愛の精神分析理論」1998年)に示している。要するに自分を他人に評価されることで満足を味わいたいという願望は、対人場面での緊張に悩まされるかどうかという問題とは独立して存在しうるのである。そしてもちろん両者は共存して差し支えない。
恥と自己愛的な傾向とが独立の変数であるということは、理屈から言えば両者の組み合わせとして四通り考えられることになる。そして私がこれまで出会った患者さんの中でやはり特に苦労しているのは、一番不幸な組み合わせ、すなわち人前に出ることが苦痛なばかりでなく、主張したいような自分を持たないで悶々としているタイプである。その場合は治療の取り掛かりをつかむことが出来ない。しかしそれ以外の組み合わせ、つまり対人恐怖に悩む人がそれでも自己顕示的な傾向を少しでも持っているケースであれば、それが対人恐怖を乗り越える際の梃子のような働きを持つのである。
このようにその人の自己愛を重視する立場は、治療的な介入にも影響を与える。もちろん対人場面での緊張や恥の感覚そのものを和らげるための認知行動療法的アプローチや薬物による治療は重要である。しかし同時に必要なのは、その人が自分の何を一番表現したいのか、それにはどのような手段がベストかを一緒になって考えることである。つまり当人の自己愛的側面のほうに働きかけるのだ。そしてそれを目指して人生を歩んでいるうちに、人は思春期から青年期にかけての、もっとも「皮膚感覚」が敏感な時期を乗り切り、自分をよりよく支え、自己表現の機会を提供するような資格や技能を持つことで、結果的に恥の病理は克服されるだろう。私の身近にもそのような経緯をたどった人は少なくない。
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恥と教育との接点という「鉱脈」を、この短いエッセイでどれだけ掘り進めることが出来たかはわからない。しかし書き終わって改めて思うのは、私は恥という感情を結局は非常に貴重なものとして扱っているということである。恥じらいを知るということ、慎みを持つということは、日本人がこれからますます欧米型の個人主義に向かうとしたら、徐々に失われていくものなのかもしれない。とすればそれはもっとも残念なことである。恥の感覚を持ってしか成立しない人間関係や到達出来ない文化があるはずだと私は信じている。
このエッセイで述べたように、あいにく学校は、頻繁に恥を体験する場でもある。しかし教育する側がそのことを十分認識しておくことで、そしてそれを生徒と共有することで、恥は子供にとってより建設的な意味を持ち得るのではないかと考える。