2013年12月24日火曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(9)

怒りが最初からポンと生じる場合がある。それはそれでいいだろう。ただ私たちが社会的な存在としてこの世で生きている時に生じる怒りは、大概「対人化 interpersonalize」している。怒りは二次的に生じるのだ。そのことを説明するのが、この怒りの二重構造説である。ただ順番としては、一次的、プライマリーな怒りの説明から始めたい。
一次的な感情としての怒り
そこでこの「一時的な感情」としての怒りの由来を考えてみる。それは自己保存本能と同根である以上、進化の過程のいずれかの時点で生物に与えられたそれが、そのまま継承されたはずである。ちなみに精神分析では怒りとはプライマリーなものであるという捉え方は半ば常識的である。フロイトもそうだし、メラニー・クラインもそうだ。オットー・カンバーグもそのような路線で論じた。他方ウィニコットやコフートはそれとはかなり違った方針を取った。私の怒りに関する議論はコフートに大きなヒントを得ているが、プライマリーな怒りがないとは思わない。それを以下に述べるが、精神分析とは異なる論拠からである。
かつて脳の三層構造説を唱えたPaul Macleanは、攻撃性は最古層の「爬虫類脳」にすでに備わった、自らのテリトリー(縄張り)を守る本能に根ざしたものであるとした。Macleanのいう爬虫類脳は脳幹と小脳を含み、心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担うとともに、自分のテリトリーを防衛するという役割を果たす。
 たとえばワニは卵を産んだ後にはしばらくその近辺をウロウロし、侵入者に対しては攻撃を仕掛ける。しかしその時にワニが「怒って」いるかといえば、そうではない。もちろんワニの身になってみないとわからないが、おそらくそう見えるだけである。感情をつかさどる大脳辺縁系は、ひとつ上の層である「旧哺乳類脳」のレベルまで進まないと備わらないからだ。
 そしてここでいうテリトリーを象徴的な意味も含めて用いるなら、それを守る本能は、上述した人間の健全な自己愛の原型と考えることが出来るだろう。それは自分や子孫を守る上でぎりぎりに切り詰めた「領分」を維持するためのものなのだ。