2013年12月23日月曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(8)

ここら辺で少し整理をしてみたくなった。この「恥とNPD」は長丁場の話になるが、方向を間違えると厄介なことになる。
 最初のテーマとしては、そもそもPDは「三つ子の魂」的な理解では不十分である、ということを扱った。NPDの人の幼少時は全然違うよ、という話。NPDの人の一部は、むしろ小さい頃はシャイな人が多い。それがそのうちりっぱなNPDに化けるという話。そこで小沢さんの例も出したのだ。そこにある基本的なメカニズムは、自己愛とは風船のようなものだという話をした。NPDの人の症状に着目するならば、これは彼らのつっけんどんさであり、それは彼らの恥ずかしがり屋な性質から説明できるというわけだが、話はより深刻な方向に進む。NPDの人の怒りはどうか。これは実は恥の感覚から来ている、というのが次のテーマとなる。
 NPDの人に周囲が困らされる場合、それが彼らの示す怒りに関連していることが多い。

NPDにおける怒りについて
NPDの人が周囲に及ぼす様々な影響の中で、怒りほど厄介なものはない。だいたいNPDぶりを発揮する人の場合、その怒りを正当化することができる。すると周囲はそれにかなり直接的な影響を受ける。
最近どこかの国でそれまで側近だった人が処刑された。処刑された人は、処刑した人の怒りを相当買っていたはずである。しかしそれだからといって、普通の社会では腹が立った相手を抹殺することなどできない。せいぜい「藁人形」程度だ。しかしそれが地位を持ったNPDであれば、人の命を合法的に奪うまでになる。なんと恐ろしいことか。
少し怒りについての一般論に遡る。従来の怒りについての心理学的な理解は単純でわかりやすかった。例えばひと時代前のある心理学辞典で「怒り」の項目を引くと、T. Ribot(テオドール・リボー)の説をあげて「欲求の満足を妨げるものに対して、苦痛を与えようとする衝動」と定義している。この種のストレートな理解は、精神分析理論においても見られた。フロイト以来怒りは破壊衝動や死の本能と結び付けられる伝統があった。それはファリックで父親的であり、力の象徴というニュアンスがあったのである。
もちろんこの種の怒りはありうる。例えばカバンの中からイヤホーンを取り出そうとして、コードが絡まってなかなか取れないとする。気が短い人の場合にはイライラしてコードを思いっきり引っ張んて使えなくしてしまうかもしれない。これなどは「欲求の満足を妨げるものへの怒り」であり、この種の怒りはいわば人格化されていない、直接的な怒り、欲求不満に直結した怒りであり、欲求の満足が得られればそれでやんでしまうたぐいのものである。しかし私たちにとって厄介な怒りは、より人格化した怒り、それも恥の感情に関連した怒りである。これはいわば二次的感情としての怒り、と整理することができる。
 この理解に立つと怒りは、その背後にある恥や罪悪感との関連から捉えられる。つまり恥ずかしい、とか自分はなんと罪深いんだ、という感情の直後に、怒りが発生すると考えるのである。その意味で怒りを「二次的感情」として理解するというこの方針は、最近ますます一般化しつつある。もちろんこの考え方にも限界があろうが、怒りを本能に直接根ざしたプライマリーなものとしてのみ扱うよりは、はるかに深みが増し、臨床的に価値があるものとなるのだ。