2013年12月22日日曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)


ここで「自己愛の風船は無限に膨らむ」の「無限」とは大げさだという印象を与えるかもしれない。もちろんタダで無限に大きくなるわけではない。周囲が許せば許す分だけ、という意味である。そして自己愛の風船は、それが中傷や揶揄のひと針により割れやすい、ということも意味する。通常私達の生きている環境は社会的にも空間的にも制限されている。「俺が一番エライ」といってもうちの中、夫婦の仲だけだったりする。会社では上司にへいこらしている。特に上司には。そのうち職場の地位が上がってくるとどんどん威張りだし、横柄な態度を示すようになる。威張る対象はどんどん増えていくのだ。しかし大体は地位は頭打ちで、上にたくさん頭を下げなくてはならない人を残して退職になる。しかし時々上まで上り詰める人が出てくる。するとその人はその組織における天皇とか呼ばれてどうしようもない態度をとるようになるのだ。典型的なNPDはそれで完成することになる。逆に言えばそうならない限りNPDにはなりようがない。「うちの子は強迫的で困っています。」という訴えはあっても「うちの子は自己愛的で困っています」とはなかなかならない。「うちの子はまるで暴君なんです。親のことを家来のように顎で使ってるんです。」という母親がいるとしたら、その親がおかしいことになる。子供にかしずくという構造を作っているのはほかならぬ親だからだ。よって子供の自己愛はあまり見当たらないのである。
ナルシストの二種類
ちなみにここまで書いていて、当然読む側には混乱が生じると思うので一言。自己愛、ナルシストには二種類のニュアンスがある。「うちの子はナルシストです」と母親が言う息子が、一日中鏡に向かってポーズを取り「俺ってなんて美しいんだろう?」とため息をついているとしたら、これもまた一種のナルシストである。ナルシストの語源としてはこちらが先だろう。こちらは一者関係的な自己完結的な自己愛。一人で満足しているから周囲はあまり困らない。問題は二者関係的な、対人的な自己愛である。自己満足に対象を要求する。人から褒められる、人を支配するという形で快感を味わうタイプである。私たちが現在自己愛について論じる場合には、この後者を中心に考える。
 もともと水面に映った自分の姿に恋焦がれたギリシャ神話のナルキッソスの話に由来するナルシズムの概念。しかしそれが対人的な病理として主として注目されるのはなぜだろうか? それは「自分はすごいんだ、素敵なんだ」という感覚が具体的な問題となるのは、結局は他者との関係においてそれを実現しようとするからだ。「自分はすごいんだ」と思っている人間が現実の世界で「ほかの人に比べて自分は決して特別ではないのだ」という体験を持ち、それに従って謙虚に振る舞うのであれば、全く問題がない。そうではなくて、周囲を「自分はすごい」という感覚を保証したり、増幅させるために用いるようになると、本格的なPDとなるのだ。