嶋崎氏の著書は、いよいよ「原因」について触れている。(楽しみであるが、実は私は安易な「原因」探しは信用していないのだが。)彼はまずMPの問題が1990年代の半ば以降深刻化してきているとする。1990年代の半ばに義務教育を受けた子供を持つ親は、現在40歳代、50歳代である。それはかつて新人類と呼がれ、共通一次世代でもあるとしている。そして彼らの特徴として、諸富祥彦明大教授の説を引用して「他人から批判されることに慣れておらず、自分の子供が批判されると、あたかも自分が傷つけられたかのように思って逆ギレしてしまう」というのだ。更に1980年代に全国の中学で校内暴力が吹き荒れたことも挙げられている。彼らはそれを間近に見て、「何をやっても許されるという幼児的な万能感に基づいた身勝手な不条理がまかり通るのを体験して育った世代が、「教師への反発、反抗は当たり前」という感覚を持つようになったことは容易に頷ける、とも書かれている。
うーん、分かったようなそうでないような。「他人から傷つけられることに敏感」というのと「反発、反抗は当たり前」とは本来二つの異なる心性であろう。ただしそれを結びつけるとしたら、傷つけられることに敏感な人がそれを他人への攻撃に転嫁する際に、教師に向かうことへの抵抗が少ない」ということだろうか。でも他人に傷付けられるのに敏感でない人などいるだろうか?私は基本的な考え方としては、自己愛の傷付きや恥の感情は人間に普遍的なものだと思う。あとは社会がそれに対する反応をどのような形で許容するかということの違いだと思う。
さて諸富先生や嶋崎先生もまた同様に持ち出すのが、現代人の未成熟や幼児性ということである。「今時の若いものは歳は行ってもまだ精神的には子供だ」という批判は、しかしおそらく古代からあったのではないか。人はそうやって年をとると、若い世代に向かってやっかみの混じった批判を向けるのだろう。
さて諸富先生や嶋崎先生もまた同様に持ち出すのが、現代人の未成熟や幼児性ということである。「今時の若いものは歳は行ってもまだ精神的には子供だ」という批判は、しかしおそらく古代からあったのではないか。人はそうやって年をとると、若い世代に向かってやっかみの混じった批判を向けるのだろう。
ところで著者は1980年代の校内暴力の時期から教師への尊敬心が薄れてきた、とあるが、私は改めて、校内暴力が1980年代半ばにピークを迎え、今は下火であるということを認識した。教師を尊敬せず、公然と自己主張をするという傾向は、しかしそれほど長くは続かず、やがて終息していったということか。つまり学園紛争より10年ほど遅い歴史を終えたということだろう。するとMPの傾向もやはりひとつの社会現象としてそれなりのピークを迎えて収束していくということか。しかしその度にその「原因」を考えて、それを「現代人の未熟化、ないしは幼児性」として扱うのだろうか?それじゃ全てがそれで説明されることになりはしないか?学園紛争も、校内暴力も、MPも。それではあまり説明になっていない気がする。