2013年12月10日火曜日

「難しい親たち」とパーソナリティ障害の問題(9)

さて島崎氏のクレーマーの分類は興味深い。彼はこれを「溺愛型」、「放任・拒否型」、「過干渉・過支配型」と分類し、諸富祥彦の「家来型」、「放任型」、「支配型」と「ぴったり一致」したという。この分類はおよそ妥当な線なのだろう。
 「溺愛型」とは、うちの子が「遠足の写真に可愛く写っていなかった」という類のクレームをつける親。子供をペット化する傾向を持つ、とも説明される。
「放任・拒否型」では子供がケータイを取り上げられたことに腹を立てた親の例が出てくる。 この種の親は子育てに力を入れないものの、それに対する罪悪感が背景にあるとする。
 三番目の「過干渉・過支配型」が一番手に負えないと説明される。「子供の多くは保護者の手厚い庇護の下、『良い子』として過ごしていますから、保護者にとっては、豊富な情報を提供してくれる“力強い戦友”となります。教師のミスは見逃さずに家に帰って報告します。親はその情報を基に、教師に対してクレームをつけることがあります。」と説明される。事例として出てきた親は、子供が具合が悪くて学校を休むようになると、放課後に母親が来校し、各教科担当からその日の授業の説明を受けていたが、時折「そんな説明じゃわからないでしょ」などと大きな声を発するようになり、しまいには摂食障害のため思春期病等のある病院に入院したわが娘のために、教師が入れ替わり見舞いがてら授業の説明をすることを求めたという。学年末試験を欠席した娘の成績が当然下がると「これでは子供の夢が台無しになる」「学習権を侵害された」「成績を買えないなら、裁判で争う」そして「○○議員を通じて、教育委員会に調べてもらう」「新聞社に電話する」とエスカレートしたという。
さてこの分類、それなりに興味深く、意味がないわけではないにしても、どうもよくわからない。親がかなり無理な要求をし、学校側がそれを聞き入れることで要求がエスカレートするというパターンは同じだ。また要求する内容は、全くの荒唐無稽な話ではなく、親がファンタジーでは描きがちなことであろうが、それを要求するというところが尋常でない。しかしもっと尋常でないのは、それを聞き入れる学校側という気もする。MPには、その対応を適切に行っていない学校側が常にペアになっているという印象を持つ。
例えばクラスで撮った写真で、うちの子だけがブサイクに写っていたり、人の影になってほとんど顔の一部しか写っていないということはありうることだ。その時になんとなく理不尽な感じを持ち、写真を撮り直してもらえないだろうか、という願望を持つこともありうるだろう。親とはそういうものだ。しかしそれを持ち出さないのは、「そんなことを言い出しても相手にされないだろう」という意識があるからだ。ところが同様のことが受け入れられる素地があるとしたら、それを学校側に要求する親が実際に出てもおかしくないだろう。
その場合学校の側にも、無茶な要求にどのように対応していいかわからないという戸惑いが最初にはあるはずだ。しかしそのうちにクレーマーに対するマニュアルが作られ、対応策を整えるようになるのだろう。
私はアメリカは大変なクレーマー社会だと思うが、それが訴訟社会をうみ、どのような団体にも分厚い規約が用意されるという状態を生んだのだと思う。カリフォルニア一州の弁護士の数が、ほかの世界の弁護士の数に相当する、などということを聞いたことがあるが、最終的にそうなることで平衡状態が気づかれる。そうでなかったら、学園紛争のように、そのような傾向自体が一種の流行の時期を終えて下火になっていくのだろう。

ということで、なかなかMPのパーソナリティの問題に向かっていかないなあ。