靖国問題。橋下さんは、「安倍さんは中韓に説明を」、と主張しているようだが、精神科的に見て(かな?)本来その説明を受け入れる用意がない人々への「説明」は徒労に終わる。むしろ説明すべきは、欧米諸国に対してではないか。安倍さんのこのタイミングでの参拝の是非はともかく、自国の神社に参拝することが、これほど他国から批判されるということ自体が異常だと思うのだが・・・・。この問題がここまで大きくなった確実な要因のひとつは、過去に総理が靖国参拝を躊躇していたからだろう。
「正当なテリトリー」を守ることは、プライドとは別の、健全な自己保存本能とでも言うべきものに関係している。「電車の座席のスペースが自己保存本能と関係あるんだって?」と反応されそうだが、少し説明させて欲しい。
正当なテリトリーの原型はおそらく身体のバウンダリーそのものだろう。皮膚を破って侵入しようとするものは激しい痛みを引き起こすだろう。そのような刺激を忌避し、回避することは自分の身の安全を確保するために絶対必要だ。これはプライドの問題ではない。そして身体に接触しなくても、誰かが近くでジロジロ覗き込んだとしたら恐怖感を感じ、怯えるのが自然だ。だから私たちは身体の表面から一定の範囲の領域をパーソナルスペースと呼び、そこは守られるべきだと感じる。国家で言えば領海、領空のようなものと考えていい。それを守るのはどのような進化レベルの生物にも共通していることなのである。そしてその侵害に対しては、断固たる態度をとるのが正しい対処法だ。というよりそのような態度は自然と起きてきて当たり前である。起きないほうがおかしい。どんなに心優しい人でも、見知らぬ通行人の叔父さんに傘で足をつつかれたら怒って抗議して当然だ。しないほうが何かの病気だろう。もちろんそのおじさんの顔を見て安倍首相だったら、また違った対応になるだろうが。
正当なテリトリーの原型はおそらく身体のバウンダリーそのものだろう。皮膚を破って侵入しようとするものは激しい痛みを引き起こすだろう。そのような刺激を忌避し、回避することは自分の身の安全を確保するために絶対必要だ。これはプライドの問題ではない。そして身体に接触しなくても、誰かが近くでジロジロ覗き込んだとしたら恐怖感を感じ、怯えるのが自然だ。だから私たちは身体の表面から一定の範囲の領域をパーソナルスペースと呼び、そこは守られるべきだと感じる。国家で言えば領海、領空のようなものと考えていい。それを守るのはどのような進化レベルの生物にも共通していることなのである。そしてその侵害に対しては、断固たる態度をとるのが正しい対処法だ。というよりそのような態度は自然と起きてきて当たり前である。起きないほうがおかしい。どんなに心優しい人でも、見知らぬ通行人の叔父さんに傘で足をつつかれたら怒って抗議して当然だ。しないほうが何かの病気だろう。もちろんそのおじさんの顔を見て安倍首相だったら、また違った対応になるだろうが。
「正当なテリトリー」と健全な自己愛
さてこの正当なテリトリーとそれを超えたナルシシズムの概念をつなぐ意味で、「健全な自己愛」という概念を導入する。実はこれは、自己愛の二種類、という問題について論じたこととも関連する。自己愛とは自分を愛する、という一人称と、人に賞賛されるという二人称的なものがあるといった(いや、実際はそういう言い方はしなかったが・・・)。するとパーソナルスペースを守るのは、どちらかといえば一人称の自己愛だ。そしてそれは自己保存本能に根ざし、動物のレベルで存在するというわけである。
そして当たり前の話だが、二人称的な自己愛が大きく発達した人(風船が大きくなった人)も、当然この「正当なテリトリー」の侵害に対する反応はするだろう。自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一次的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。
そして当たり前の話だが、二人称的な自己愛が大きく発達した人(風船が大きくなった人)も、当然この「正当なテリトリー」の侵害に対する反応はするだろう。自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一次的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。
ただし「正当なテリトリー」を守るという健全な自己愛と、一人称的な自己愛がぴったりと重なり合うかというとそうでもない。恥から見た自己愛パーソナリティ障害(7)では、一人称的な自己愛の例として、自分の姿を見てうっとりする青年という例を挙げたが、それこそナルキッソスのようにそのまま飲まず食わずで死んでしまったならばそれは病的というわけだ。しかし自己陶酔が極端なかたちで生じている場合も、おそらくあまり病理性は問われないだろう。そもそも自分の姿に恋焦がれて死んでしまうような人など聞いたこともないし、自分の姿の美しさや完璧さを周囲の人々が認めることを強要するところから、即ち二人称的な自己愛に変質するところから病理は始まるのである。