2013年12月27日金曜日

恥から見た自己愛パーソナリティ障害(12)


昨日は大学院の忘年会であった。久しぶりにお酒を飲んだら、 今朝はダルイ・・・・・。

人間のテリトリーにはプライドが加算される
先を急ごう。動物レベルでのテリトリー侵害への怒りという話をしていた。動物はその侵害への反応として正当にも「怒る」のだ、というところまで話が行った。では人の場合はどうか?このテリトリーとは人の場合にはどのように体験されるのだろうか?
 結論から言えば、人にとってのテリトリーは想像力により巨大化し、風船化する傾向にあるのだ。コブダイだったら身の程にあった岩山で満足するだろう。ところが人間並みのプライドを持ったらどうなるか。「俺は偉いんだぞ!第一水面に映った俺のコブは相当かっこいいぞ。」(魚は、おそらく水中から見た空を鏡にしているだろう!)となり、「俺様にふさわしいだけの岩山を支配するぞ。」そうして気が付いたら近くの岩山をすべて征服しているのだ。もちろんすべての岩山を見張るわけにはいかない。そこで周囲の幾つかの岩山のコブダイに睨みをきかす。彼らもボスコブダイに合うと目をそらせたり尻尾を巻いて逃げたりするから、ますますボスコブダイは図に乗る。するとほんの遠くにちらっと見えたコブダイがガンをつけたり、頭を下げり(するか!)しないだけで猛然と怒り出す…。コブダイではありえないようなこんな話が、人間では起きてくるのだ。人間とコブダイでどこが違うかと言えば、「俺様は偉いんだ(駄目なんだ)」という自意識の存在である。自分を客体し出来るということはそこに優劣、強弱という属性を必然的に含みこむ。ところがそれを生み出す想像力には限界というものがない。俺様は偉いと思い込んだコブダイは、もはやこぶの大きさで相手との優劣を決めるわけではない。何しろ「何とか山のドン」とか言われるとどの程度偉いのか分からなくなり、その分だけテリトリーは肥大していく。どこまで肥大するのか? 周囲が許容する限界までである。そしてこれはすでに述べた「自己愛風船論」につながるのだ。
プライドの加算分が恥になり、怒りに転嫁される
もうちょっと詳しく説明しよう。人間の場合も動物であるから、テリトリー侵害の仕組みは動物と同じだ。そこでまずプライドにより水増しされていないテリトリーの感覚を想像しよう。いくら想像力に富んだ人間でも、テリトリーを水増ししない場合がある。そこで「正当なテリトリー」という言い方をここで作ってしまおう。(ブログだから好きにできるのだ。)コブダイにとって自分のコブの大きさに見合った岩山。これは人間にもあるぞ。うーん、うまい例はないかな。
 あなたが電車に乗り、あいている席に座る。電車の座席に座る時、大体自分に与えられたスペースはどのくらいかはわかるはずだ。そのスペースはおそらく「正当なテリトリー」に相当するはずだ。そこに隣の人の傘が割り込んできたら、あなたは憤慨するかもしれない。隣のおじさんがあなたのテリトリーに割り込んで来るような大きなカバンを膝の上に載せたら、「これってちょっとひどくない?」と思うだろう。それは正当な怒りや苛立ちのはずだ。


自意識を獲得し、そのために自己愛を肥大化させるにいたった人間も、やはり自分や子孫の生命を守る必要がある。その必要は生物としての存在に由来し、自己愛的で鼻持ちならない輩も、つつしみ深くてへりくだった人間も同様に有しているのである。一時的な怒りはその生物としての人間が維持されるために必須のものと考えられるのだ。