しかしここは、これ以上妄想を膨らませることなく、一応次のように言っておこう。動物には恥の感情はない。ほかの個体に見られる自分を想像し、恥ずかしがったり、自分を不甲斐なく思ったりという心の働きは持たないのだ。彼らは相手に負けた時は「まずい、逃げるしかない…」という感じなのだろう。すなわちそこに居続けると身の危険が迫るから立ち去る(泳ぎ去る)のであり、それ以上でも以下でもない。要するに防衛本能に従ったまでなのだ。「俺ってどうしてこうなんだろう?また負けちゃったよ。情けないな。」「俺の額のコブって、どうしてこんなに貧弱なんだろう。いやになっちゃうよ…(コブダイ)」とはならない。それは自己を他者と比較したり、客体視することができないからだ。
動物にもそのような能力の萌芽があるって?天才ボノボなら少しは恥の感覚はあるだろうって? よろしい。それはそれでいいのだ。天才イルカの中には恥の感覚を持つ者もいるかもしれない。そこら辺は人間とそれ以外の動物を峻別する理由はない。第一人間にも「恥知らず」はいくらでもいるではないか。人の姿をした猪もいる?ナンのことだ?
文句あるか!! |
動物にもそのような能力の萌芽があるって?天才ボノボなら少しは恥の感覚はあるだろうって? よろしい。それはそれでいいのだ。天才イルカの中には恥の感覚を持つ者もいるかもしれない。そこら辺は人間とそれ以外の動物を峻別する理由はない。第一人間にも「恥知らず」はいくらでもいるではないか。人の姿をした猪もいる?ナンのことだ?
ちなみに動物も逃げる時は恥の感情に近いものを感じているのではないか、というこの発想は、後に私の考察にとって重要になってくる。
ところでふと考えたが、動物に恥を想定しないということは、実は動物に怒りを想定する根拠もその分だけ奪う、とは言えないだろうか? 逃げる、という行動が純粋に身を守るための手段であり、感情を必ずしも必要としないのであれば、相手を撃退するという表面上は非常に攻撃的な行動だって、本能に従ったものになりはしないだろうか? もちろん攻撃も逃避も俊敏で激しい身体運動を必要とするし、そこに感情が伴っていればそれだけそのような身体運動を誘導しやすいとイメージすることはできるが、例えば激しくこぶしで打ち合っているはずのボクサーたちが案外冷静だったりするのと似ているかもしれない?・・・・つまり私は「動物は怒りはあっても恥はない」という常識の両面を疑っているわけだが、これでは読む人はなんのことだかわからないだろう。