2013年7月10日水曜日

こんなの書いたなあ (7)


我ながらよく書くなあ。

こころの科学 特集「怒りと衝動の心理学」20115月号

突発的な怒りの精神病理
               
今回「こころの科学」の特集「切れる-怒りと衝動の心理学」で、怒りについての精神病理学的な考察をさせていただくことになった。私はかねてから怒りや攻撃性というテーマに大きな関心を持ち、すでにいくつかの論考を発表する機会があった(岡野、20062007)。そこで改めてこのテーマについて考える場合、日常的な怒りについては、その基本的な考え方は上に示した二論文から大きな進展はない。そこで今回はその記述は最小限にして、「突発的な怒りの精神病理」と題して、事件性のある怒りの表出、特に殺人事件にいたった突発的な怒りの表出と衝動性というテーマを主として扱うことにする。
1.予備的な考察:日常的な怒りの生じ方 
抑圧・発散モデル
まず日常レベルで誰もが体験する怒りについて、これまでの考察を含めて論じておきたい。本稿で主として扱う概念は怒りと攻撃性であるが、この両者は実は興味深い関係を有する。夫々をどのように定義するかにもよるが、怒りを感情として捉え、また攻撃性aggressivity の代わりに攻撃aggressionを考えるならば、両者はちょうど互いを補う関係にある。すなわち怒りは攻撃により解消され、また攻撃が抑えられて発散できない時に怒りはつのることになる。私が怒りの「抑圧・発散モデル」として提案してきた説明の仕方はそのような事情を言い表したものである。
また攻撃性aggressivityを攻撃aggressionを引き起こすポテンシャルないしはそれへの傾向をあらわすものとするならば、攻撃が抑えられる限り攻撃性は高まったままとなり、その主観的な体験が怒りであるという図式が得られる。
例えば声高に口論をしていた相手から、いきなり平手打ちを食うという場合を考えよう。そして次の瞬間にあなたが平手打ちを返したとしたら、あなたはほとんど怒りを感じる暇がないかもしれない。逆に相手への仕返しを我慢している状態では怒りが生じるだろう。そしてそれ以上耐えられなくなった時点で相手に表現されることになる。「堪忍袋の緒が切れる」という表現はそのような事情をよくとらえている。そしてそれがそのほかの感情、例えば哀しさ、嬉しさ、痛み等とは決定的に異なる。これらについてはどのような行動を起こしたとしても、その苦痛の度合いは本質的には変わらないはずだからだ。
ただし攻撃が怒りを解消するとしても、それは適度な強さで行われた場合のことだ。攻撃は過剰であっても過小であっても、後に問題を残しかねない。先ほどの平手打ちの例で言えば、与えられたダメージに見合った分だけ仕返しを出来ればいいが、相手にその平手打ちをうまくかわされてしまったら、更に腹が立つだろう。また逆に相手が思いがけず重傷を負ってしまったら、たちまち後悔の念と罪悪感に悩まされることになる。
このように怒りには、それを解消するための手段があるにもかかわらず、私たちはどうして日常的に怒りの感情に悩まされるのだろうか? その答えは明白であろう。多くの場合その怒りを直接表現する形で攻撃に出してしまえば、社会生活上重大な損失を招くからだ。無理難題を押し付ける上司に「もう、いい加減にしてください!」といきなり怒鳴り返したとしたら、たちまち職を失ってしまうだろう。言葉の攻撃を繰り返す妻に少しでも口答えしたら、明日からお小遣いがもらえなくなってしまうだろう。実生活では怒りの発散が事実上不可能な場合がきわめて多いのである。
しかしそれでは私たちには怒りを表現する手段が全くないかといえばそうでもない。いきなり大声を上げたり殴りかかったりする代わりに、私たちは言葉を用いて相手に気持ちを伝えることが出来る。もちろん不適切な言語表現はそれ自身が事実上の攻撃になってしまって禍根を残しかねないが、適切な表現の仕方は自分の怒りをある程度処理しつつ、しかし相手との関係を破壊せず、関係を建設的な方向に導くことにつながるだろう。それを私たちはアサーティブネス(自己主張)と呼ぶのだ。
次に紹介する「自己愛モデル」でも述べるとおり、怒りの多くはそれ自体が不条理であり、互いが自己愛を傷つけあいながら攻撃を加えることで出口のない怒りの連鎖を生む。そこで個人個人が自分の怒りの感情と向き合い、その性質を知ることがきわめて重要になってくるのである。
自己愛モデル
以上述べた「抑圧・発散モデル」は、怒りが生じる過程を説明しているが、その怒りや攻撃性の本質について考えたい。攻撃性を論じたことで有名なフロイトは、最初はこれを性的欲動の一部として説明していたが、後にそれを生の本能とともに人間が持つ死の本能に関係するものとしたことが知られている。しかし一般的には、フロイト流の本能一元論よりは、攻撃性とは要するに相手を害したいとする衝動であり、そこにはさまざまな要因を考える(加藤他、2001)。そしてそのような状況としては、人が身の危険を感じた時に相手を攻撃するという闘争逃避本能に基づいたものと、願望を抑えられた際に生じる感情があげられる。
これらの二種類の状況については、実際の例を考えればわかりやすいだろう。身に危険を感じるような深刻な状況での私たちの反応はむしろ不安や恐怖であろうが、日常体験のレベルでの他者から受けた侵害は、私たちに強い怒りの感情を生む。混んだ電車で足を踏まれたり、店で並んでいて自分のすぐ前に横入りされた場合には当然腹が立つだろう。また肉汁のしたたるビフテキをまさに口にしようとした時に床に落としてしまったら、落胆と同時に腹が立つかもしれない。こちらは卑近ではあるが願望の充足が抑えられた際の怒りの例である。
しかしこれらの怒りの例は、臨床上問題となるものとはかなり異なる。心身を脅かされたり願望を抑えられた際の怒りは一時的に高まっても、その原因が取り除かれたりそのことを忘れてしまったなら消えて行く運命にあるだろう。それらは誰にでも起きる予測可能で正常範囲の怒りということが出来る。しかし臨床上出会う怒りはより複雑でかつ深刻であり、その生じ方に大きな個人差があり、しかもしばしば個人のコントロールの限界を超えて日常生活に支障を与えるようなものである。これらの病的な怒りを含めた怒り一般を説明するために私が提案しているのが「自己愛モデル」である。それを私は以下のように説明した。
人は誰でも自分の能力や属性に対して一定の自負を持つものだ。それをまず広義の自己愛と呼んでおこう。人はそれが他人により脱価値化されたり揶揄されたりした場合には強烈な痛みを味わう。そしてこの自己愛の傷つきが、その他人に対する怒りへと変換するのだ。
この自己愛には、二種類考えられる。ひとつは動物にとっての自分のテリトリーに相当するような、その人の肉体的かつ精神的な生存にとって不可欠な種類があり、これを健全な自己愛とよぼう。こちらには身体にともなうパーソナルスペースに始まり、人間的なあり方を保障する生存権や基本的人権を含む。それが脅かされた場合には人間としての生存や最低限のプライドを保てないような要素により構成されるのである。そしてもう一種類はその範囲を超えて、時には病的なまでに肥大した部分である。こちらは病的な自己愛と呼べるような部分、すなわち社会的地位や年齢のせいで一目おかれること以外にあまり根拠のないプライドや、自分は偉大な力を有していたり天才であったりするという妄想がかかった考えをも含む(岡野、2008)。
これらの二種類の自己愛は、あたかも明確に分けられるかのように表現したが、実は主観的には区別しがたいこともある。それにいずれの種類の自己愛も、それを否定され、傷つけられた際の痛みは変わらない。そこで私はこの両者を連続体(図1← 省略)として捉え、怒りはこのどの部分が傷つけられたとしても生じるという見方を示したのだ。 


(以下略)