2013年7月9日火曜日

こんなの書いたなあ (6)

日本精神分析協会 2012年度年次大会発表論文

「分析状況」に関する一考察

1.はじめに
精神分析状況とは不思議なものである。週に4セッションないし5セッションというプロセスがいったん開始すると、たまたま休みが重なって次回のセッションまで一週間ほど空いただけで、患者はすでにそこに物足りなさを感じるようになる。通常は週一度のセッションでもかなり高頻度であると感じられることもあるのに、どうしてそのようなことが起きるのであろうか。それは週4回という頻度が醸す一定のリズムや雰囲気や、それにより作り出される一種の心的な距離の近さ、ないしは親密さのせいであろう。患者は次回まであいた一週間という時間的な距離を、心的な距離の遠さと感じ、そこからくる物足りなさや寂しさを訴えているようでもある。そしてそれは治療者である報告者の心の中にも、わずかではあるが、ある種の寂しさを生むのである。
 週に4回ないし5回という設定の精神分析的な状況が、ある意味で特殊な人間関係を生むこと、そしてそれが場合によっては退行促進的であるということはこれまでも論じられてきた。そしてそれが一方では非常に洞察的で非・支持的な治療形態とされる精神分析療法にある種のパラドクスを与えていることも確かであろう。
今回報告者が描く治療関係は、かつて週一度の精神療法を行ったケースである。それが週に頻回会うという治療構造を新たに設定してそれが開始されることで、そこにさまざまな変化が生じた。その中でも特に問題として浮かび上がったのが、この親密さの問題である。それに関して報告者が持ったいくつかの体験やそれに関する考察について触れたい。
2.理論的な背景
精神分析の回数の問題は、その退行促進的な側面についても論じられてきた、と先ほど述べたが、しかしそれは精神分析の文献の中ではあまり強調されていなかったという印象を受ける。週に頻回のセッションを実践したのはいうまでもなくフロイトであったが、週に6回というそのセッションをフロイトは決して多すぎるとは思わなかったようだ。メニンガー時代に分析家の先生から教えてもらったジョークに次のようなものがあった。「精神分析はどうして週に6回も患者と会うのか」。その答えは「だって日曜日は教会に行かなくてはならないからだ」というものだった。フロイトは週末に精神分析が途絶えるだけで患者が抵抗を形成するとして、それを月曜の瘡蓋Monday crust (Freud, 1913, p. 127)と呼んだ事はよく知られている。フロイトの口吻からは、週6回でも不十分なのに、週5回、週4回などとんでもないという雰囲気が読み取れる。したがって「精神分析はたった週4回でいいのか」という問いはフロイト派の立場からは真剣に問われなくてはならないはずであるが、さすがにそこまでフロイトの完全主義に合わせられないというのが真相だろうか、その種の議論はあまり聞かない。実際に同じ町に分析家がいて、そこまで訪ねていくということが可能であれば、毎日分析もありうるであろうが(ちなみに私が米国で滞在した地方の町は、町の主要な場所まで車で10分程度あれば行くことができ、駐車場事情も全く問題なかったので、毎日分析も不可能ではなかった。2時から患者、3時から分析家のオフィスに出かけて自分の教育分析、4時から自分のオフィスに戻って別の患者、という予定だって可能だったのである。)ところが分析家のところまで新幹線で通うような現在の私たちの置かれた状況では、週6回分析家に会うことは、自分自身の仕事や私生活を一時的にではあれ放棄するに等しいということになる。ただし最近スカイプというものができたので、それを利用した、仕事に支障のない週6回のセッションというのも実現可能かもしれない。少なくともフロイトが現代に生きていたら飛びついただろうと考える。婚約時代のマルタさんに4年間で900通の手紙を送ったフロイトである。ケータイやパソコンのメールだったら計り知れない数をマルタさんに送ったであろう。同じように彼ならスカイプなどの通信のあらゆる手段を分析に応用しようと考えたのではないか。
いずれにせよ週4回以上という精神分析の頻度がもたらすことのひとつとして考えられるのが、その退行促進的な側面だが、精神分析の歴史をみると、この点はあまり議論はされていないようだ。たとえば修正感情体験で有名なフランツ・アレキサンダーは、退行を抑えるために、精神分析の頻度を減らすことを提唱した。(Alexander, et al., 1946, p.33) しかしそれは彼が提唱したほかのことと同様、それは精神分析のコミュニティーからはあまり好意的には受け取られなかった。
精神分析における高頻度のセッションがもたらす退行促進的な影響に関して報告者が妥当に思うのは、しばしば引き合いに出されるフィリス・グリーネーカーの考え方である。彼女は、カウチの上での患者の様子を母子関係になぞられている。そしてそのような関係性を生み出す分析状況を一種のパラドクスとして理解する。
「患者がカウチの上で感覚的な孤立を体験することで、孤独や欲求不満や対象への飢餓を体験する。それと同時に回数が頻回で、しかも長い期間患者へのニーズに没頭することは、初期の母親と子供の親密さを賦活する。」と彼女は論じている。
ただし私が理解するバージョンはもう少しシンプルなものである。それは精神分析の高頻度のセッションは退行促進的でありかつ、退行抑止的でもある、というものだ。週4回のセッションは、一方で退行を促進し、親密さに対する期待を増すと共に、それがある種の幻であるということを自覚する機会もまたより多く提供するようなプロセスでもあるのだ。
3.臨床素材
 
(省略)

4.考察

(症例を含むので省略。)