2013年7月8日月曜日

こんなの書いたなあ (5)

昨日は表参道のこどもの城で「対象関係論勉強会」の司会。半端じゃない暑さだった。でもやはり・・・・夏の方が好きだ。


土居健郎先生追悼集 (2010年)に所収

土居先生お世話になりました


私はこのような文を書かせていただく資格はあまりないように思う。土居先生を恩師と呼べるような直接のご指導を受けてはいなかったからだ。ただ一方的なお願いごとをしてお世話をいただいたという意識だけがある。
私が医学生のころから、土居先生はすでに著名で近寄りがたい存在だったが、所属する医学部の精神科の教授ということだけで、こんな葉書を差し上げたことがある。「私は医学部の二年目ですが、精神科に進もうかと考えています。今読むべき本を教えてください。」土居先生は一面識もない医学生にもお返事をくださった。「今はいい文学書にでも親しんでおいでなさい。」いかにも土居先生らしいシンプルな答えであったが、私にはその真価が十分にわからなかった。
それからほどなくして土居先生の退官記念講演があった。私にとっては先生の講義を聞く唯一の機会だったため、勇んで講堂に現れた私は、入り口で三人のクラスメートにたちまちつかまってしまった。精神科への志望をすでに明確に持っていながら、その道の大家の講義を聞かずに遊戯で時間を過ごしてしまうことにはさすがに後ろめたさを覚えた。
後に精神科医になった私は、またご迷惑をおかけした。いきなり原稿用紙500枚の論文を読んでほしいと持ち込んだのである。臨床を初めて二年目の夏に、私はそれまでの一年間の臨床を通して膨らんでいたさまざまな着想を原稿用紙に書き綴った。自分の考えにうまく形を与えられずに悪戦苦闘したが、秋ごろには一抱えもある原稿用紙の束になった。最後は「人の行動が快楽やその予期によりいかに決定付けられるか」というようなテーマにまとまったのだが、あちこちに修正の入った手書き原稿、引用文献なし、というとんでもない代物だった。しかし私は書いている間中、その真価をわかってくれるのは土居先生しかいないと一方的に思い込んでいた。そして書きあげるや否や先生に面会を申込み、当時の先生の勤務先の国府台の国立精神衛生研究所に先生をお訪ねて原稿を手渡した。先生はあきれた表情で、「君の意気込みはよくわかった。だがとても全部読む気になれないよ。十分の一の長さにしなさい。」といわれた。私が一月ほどかかって要点のみを拾ったダイジェスト版をまとめると、それを読んでいただいた後に、先生は今度も実にあっさりとおっしゃった。「僕は君の言うことには反対だな。」そして「人は快楽以外に対しても動くものだよ。まあ、あせらずにやりなさい。」と諭していただいた。
それから数年が過ぎ、私は長い留学に旅立ったが、最初の留学先のパリ大学のペリシエ教授に紹介状を書いていただいたのも土居先生である。そして私が十八年のちに2004年に帰国した際に別のご縁があって聖路加国際病院精神科でパートの仕事を得たが、そこで与えられたのが何と土居先生のオフィスであった。先生はリタイアの後も、週何日かは顧問として聖路加で臨床をなさっていて、私は先生の勤務日以外に先生のオフィスをお借りすることになったのである。私はそれから五年間、週一日ではあるが、まさに土居ワールドに包まれて過ごすことができたのである。先生の整理の行き届いたファイルケース。使い古されたペン立て。ゴムが劣化しきって引き出しの中に捨て置かれた打腱器。書棚には先生の特徴ある筆跡の書き込みの入った数多くの書籍があった。仕事の合間にそれらを覗いては、土居先生の長いキャリアを思い、自分はつくづく恵まれているのを感じた。
それから私は土居先生と時折メッセージをかわしていただけるといううれしい機会が生まれた。オフィスが共有なので、先生へのメッセージは手紙を机上においておくだけでよかった。先生は翌日にそれを見つけてお読みになり、私の翌週の勤務日の前日には、お返事を机上に残してくださった。ここ数年は夏には私がこれは、と思った英文の専門書をお届けした。先生はいつもたちまち読破されて「おもしろかった」「今ひとつだった」などと短い感想をくださった。
先生が亡くなるまでの数年間、私はそんな静かなコミュニケーションを楽しみながらも、一度先生にじっくりとお話を伺いたいと思い続けた。「これからの日本の精神分析はいかにあるべきか?」というような少し深刻な話である。しかしそれでも私は土居先生のことが畏れ多くて、機会を先延ばしにし続けた。このころ先生は、まだお元気なうちにご挨拶をしたいと訪れた人に、「僕はまだ死なないよ。」と少し意地悪な冗談をおっしゃっていたことがあった。私も改めて面会を申し込むことで同じことを言われそうで、ますますお声をかけづらくなった。そしてとうとう昨年の春に先生の最後の入院を迎えたのである。
病室を訪れた際に最初に目にしたのは、ベッドに伏した先生の後ろ姿だったが、そのあまりの小ささに、先生の余命がほんの僅かであることを感じた。先生はすでに失声状態で、もうあの短い言葉さえいただけなかった。先生は私を見上げて「キミ、失敬するよ、もう話せないんだ」とでも言いたげに片手を持ち上げ、私はそれを黙って両手で覆った。先生はそれから三日後に息を引き取られ、それが最後のお別れになってしまった。

もう土居先生はこの世にないが、先生の網膜に何度か自分を映していただいたことを思い感謝している。