2013年7月7日日曜日

こんなの書いたなあ (4)

 転移解釈の意味するもの ―自我心理学の立場から (精神分析研究 2008年)
                  

抄録
精神分析において転移の概念は極めて重要な意味を担うが、転移解釈のみを本質的な治癒機序と捉える姿勢は過去のものになりつつある。かつて自我心理学のリーダーであったMerton Gill は後に関係論へと立場を推移させたが、その関係論においても転移が治療場面における治療関係にとって持つ意味は極めて重視される。そこでは転移の解釈がいかなる時に治療的に用いられ、いかなる場合に侵入的となるかについての治療者の柔軟な判断が要求されるのである。転移・逆転移は治療状況において常に生じているが、それを解釈したり操作したりする治療者の力にも限界がある。治療者は移り変わる転移状況を感じ取り、患者と共に身をゆだねることで、すでにその役割の重要な部分を果たしているのである。
キーワード: 転移 transference、逆転移 counter-transference,解釈 interpretation、関係論 relational theory
1.理論的背景
はじめに
このシンポジウムで私に与えられた役割は、転移の解釈について自我心理学的な流れをまず紹介し、その上で私自身の考えをお話しすることと理解しています。
まず述べたいのは、私自身は転移の問題について、かなり深い思い入れを持っているということです。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるでしょう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたということは、それ以外の心の理論に比べて明らかに一歩抜きん出た位置づけを精神分析理論に与えたのだと考えます。
ただし私の立場は転移の解釈に特権的な治療的価値を与える姿勢とはやや異なります。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていましたが、後になっていわゆる「関係論 relational theory」の枠組みから転移の問題を捉えるようになりました。その関係論においては、転移についてその解釈の治療的な意義を強調するのではなく、転移が治療場面における関係性において持つ意味を重視する立場が取られますが、それは私自身の考え方と一致します。そしてそれは転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるのです。
あるエピソード
転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがあります。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことです。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話しました。「先生は私と似ていると思います。先生はいつも何かいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえたでしょう。すると私の分析家は黙ってしまったのです。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのですから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになりました。それ以降も、私は分析家との間で同様のことを何度か体験しました。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのです。
もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことです。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいましたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわかりませんでした。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じましたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていました。
それから何年かして私は帰国し、日々臨床を行っているわけですが、今度は私が逆の立場を体験することがあります。私の患者さんで私が書いたものを読んでいる方が時々おられますが、その内容に関する話が出ることがあるのです。「先生が書いてあったお宅の犬は最近どうしてますか?」とか、「先生の対人恐怖の傾向はどうなっていますか?」などと尋ねられます。そのたびに私は非常に複雑な思いをし、冷や汗が出たり顔がこわばったり、ときにはうれしく感じたりします。そして患者さんが転移感情について語り、私自身について言及するのを落ち着いて聞くことは決して容易ではないことを身をもって体験することになりました。
転移がパワフルなのは、それが患者の口から語られた際に、その内容が否応なしに治療者自身にかかわってくるために他人事ではいられなくなるからなのでしょう。そこで引き起こされる恥の感情や気まずさのために治療者自身が非常に防衛的になってしまい、場合によっては投影や否認等のさまざまな規制を用いてしまう可能性があるのです。
転移の理論の発展
転移に関する理論的な背景について少し述べます。転移の概念を提出したフロイトは、それをいくつかに分類しています(1)。それらは「陰性転移」、「抵抗となることのない陽性転移」、「悪性の陽性転移(性愛化された転移)」などです。この中でフロイト自身は、「邪魔にならない陽性転移」を、治療が進展する上での鍵であるとさえ言っている点は注目すべきでしょう。 ただしフロイト自身は転移を直接扱うことには比較的消極的であったという印象があります。
その後 1934年の Strachey7)の「変容性の解釈」mutative interpretation という概念に代表される形で、転移の解釈はいわば精神分析治療の王道と考えられるようになりました。「分析家の技量は、転移の解釈をいかに的確におこなうかにかかっている」という前提が分析家達の肩に重くのしかかるようになったのです。そしてその後の半世紀の精神分析の歴史は、分析家たちがこの超自我的なプレシャーから解放されていくプロセスであったということができるでしょう。
私自身の治療観を振り返っても、同様の「解放」のプロセスが生じたわけですが、そこには私が精神分析のトレーニングを受けたアメリカの自我心理学的な環境が色濃く影響していました。そして自我心理学の論客の中でもの私が一番同一化できたのは、Merton Gill のたどった道筋でした。Gill はその名著「転移の解釈」 (2)で広く知られていますが、その主張は「分析的な治療においてはヒア・アンド・ナウの転移の扱いに最も力が注がれるべきだ」ということでした。よく言われる「ヒア・アンド・ナウ = 今、ここで」という表現はギルが繰り返し用いることで広く知られるようになったのです。
Gill は、1941年よりカンザス州のメニンガー・クリニックで伝統的な自我心理学派のトレーニングを開始しました。しかしその後マサチューセッツ州のリッグスセンターでの臨床研究を経て70年代にシカゴ精神分析協会に移ってからは、大きな方向転換を遂げました。自我心理学的なメタサイコロジーに潜む科学的、客観主義的な姿勢を批判し、治療を生きた人間同士の関わりとして捉えることへと向かったのです。それが1980年代に Gill の提案した「二者心理学」の概念やヒア・アンド・ナウの転移分析の提唱(3)に端的に表れていたのです。
Gill の主張は当時のアメリカの精神分析界に大きなインパクトを与えましたが、そこには古典的な精神分析の治療スタイルに限界を感じる治療者がその当時多くなってきたことが関係していました。外科医のような冷静さと客観性を備えた分析家が患者の問題の起源を過去にたどり、それが治療関係に反映されたものとして転移を捉えてその解釈を行うことは、必ずしも功を奏しないと多くの臨床家が考えたのでしょう。そして彼らは患者との生きたかかわりに精神分析の新たな可能性を追究するようになったのです。
Gill の主張はそのような時流を背景とし、その後の Robert Stolorow らによる間主観性の議論 (6) や、Stephen Mitchell Jay Greenberg らによる、いわゆる「関係論 relational theory(4) の立場へと合流して行きましたが、私自身もこの関係論的な枠組みから転移の問題を捉えるようになりました。その関係論においては、転移についてその解釈の治療的な意義を強調する立場から、転移が治療場面における関係性において持つ意味を重視する立場への移行がみられたことは先述したとおりです。
ところで Gill の主張が大きな影響力を持った一つの理由は、彼が転移という、精神分析において最も(かなめ)となる概念を取り扱ったことです。それは精神分析理論の基本に立ち戻るという保守的な側面と、二者関係の中で精神分析を捉えなおすという革新的な面の両方を持っていたのでした。精神分析の伝統を重んじる人にも、精神分析の未来を模索する人にも、それは一種の福音となりました。きわめてオーソドックスな自我心理学の立場から出発した Gill が至った境地からのメッセージだからこそ説得力を持っていたのでしょう。
ちなみに Gill の主張の中でも特に評価されているものの一つに、転移の解釈をこの「転移に気が付くことへの抵抗についての解釈」と、「転移を解消することへの抵抗に対する解釈」とに分類した点があげられます。特に前者は、「転移現象は常に起きているのであり、その存在を認めることへの抵抗こそ先ず扱うべきものである」というギルの立場を表していました。この主張は当時としては画期的であったと同時に、後述するように転移解釈の重要性をやや過剰なまでに重んじる傾向を生んだ可能性があります。
このギルの主張は現在もアメリカでは尊重され続けています。ただしより革新的な立場からは異なる声も聞かれ、Gill の共同研究者であった Irwin Hoffman もその一人です。Hoffman は自著で自分と Gill の立場との相違について、「転移解釈が非常に威力を持つ可能性がある点については賛成するものの、それにあまりに重点を置いてしまうと、同時に生じているような意図しない対人間の影響に比べて、それが超越した力を持っていると過大評価してしまう」と述べています(5)。
私自身の立場
以上の理論的な背景をもとに、私自身の立場について述べるならば、それは上に述べた Hoffman の姿勢にほぼ一致します。転移の中には、特に触れないでおくことで自然と温存され、治療同盟のきわめて重要な要素であり続けるものも多いのです。また患者を変えるポテンシャルを持つものは転移の解釈以外にも多種多様なものがあります。精神分析の外部で起きていることに耳を閉ざさない限りは、たとえば森田療法、クライエント中心療法、認知行動療法的なアプローチも同じように有効な治療法となりうる点は認めざるを得ません。転移解釈の成果に関する「実証的」な研究結果も多くの考察の材料を与えてくれます。Gill の慧眼を持ってすれば、実証主義的な風潮の著しいアメリカの環境であと10年生きながらえたなら、Hoffman と同様の相対的な立場に至った可能性もあったでしょう。
そのような前提で転移に関して私が主張したいことは、やはり転移・逆転移関係に注意を払うことは、力動的な治療者が常に心がけるべきであるということです。精神分析のトレーニングの最大の特徴は、まさに Gill のいう「転移を意識化することへの抵抗」を克服することに向けられることに相違ないのです。治療者はおよそあらゆる可能な転移逆転移関係を常に見出し、心の中で解釈し続けることが期待されます。しかしここで同様に大切なのは、それは解釈を治療状況で実際に口にすることとは別であるということです。ひとつの治療場面において考えられる転移逆転移は決してひとつではありません。患者さんは治療者を母親のように見ていると同時に父親のように感じていることもありえます。また父親のような治療者イメージも、優しいそれであったり、怖いそれであったりという風に、互いに矛盾しながら存在するものなのです。多くの場合は臨床家はそれらの可能な転移解釈の海にともかくも患者と共に身を委ねた free floating 状態、それらを感じているだけで、すでにその役割の重要な部分を全うしているのです。それは共感と呼ばれるものとも遠くはないでしょう。可能な転移解釈のうちのいずれかがおのずと言葉として浮き彫りになってこない限りは、それを個々に選択して言語化することは、それが「鋭利なメス」として作用しないまでも、共感の維持にとっての障害となりかねないです。
自分でも「気恥ずかしい」と感じられるような解釈には用心せよ
転移解釈の議論でしばしば見過ごされる点があります。それは転移が本来感覚的、情緒的な性質を有するということです。転移は治療者が何かを感じ取ることでその存在を知るのであり、論理的な想定に基づいたり、知的に作り上げられるものではありません。しかし転移をめぐる議論はしばしば知性化の対象となり、精神分析の歴史においても弊害をもたらしてきました。他方転移を感じ取る治療者の感受性は、通常の対人関係を営む中で自然に育まれ、かつ維持されていくものなのです。それは精神分析のトレーニングにより作り上げられるものというよりは、その前提となるべきものです。それがあってこそ転移の存在に気が付くための職業的な訓練にも意味があります。そもそも治療者が感じ取ってもいない転移について論じることは、それを治療者の防衛や知性化、ないしは作為の産物であることに任せることになりかねません。転移解釈が「鋭利なメス」以上の「凶器」となってしまうのはそのような場合でありましょう。
しかしそうは言っても実は転移の解釈が知性化や防衛の要素をまったく欠くことも事実上不可能です。治療者が技能や知識を身につけた専門家としての期待からまったく自由であるわけには行かないからです。
そこで私は臨床場面で次のような考えを念頭においています。それは「気恥ずかしさを感じさせるような解釈は、心の中にとどめておくだけにした方がいい」ということです。その気恥ずかしさは、最初から感じ取ってもいなかったものを知的に創り上げてしまったという「まがいもの」の感じ、あるいは自由に漂わせておけば生き生きとしていたものを無理やり掬い上げて固定してしまう治療者のエゴイズムと深く関係しているのです。
以上の立場を例証するものとして、次に症例を挙げます。
2.臨床例
  
(省略)
3.考察
(省略)

文献
(1 ) Freud, S.: 1916 Ovservations on Transference-Love (Further Recommendations on the Technique of Psycho-Analysis III). Standard Edition, 12, 159-171. London: Hogarth Press, 1958. (小此木啓吾訳:1983 転移性恋愛について.[フロイト著作集9]、人文書院、京都)
(2) Gill, M.: 1982 Analysis of Transference. Volume 1. Theory and Technique. International Universities Press, Madison Connecticut. (神田橋條治、溝口純二訳 2006 転移分析-理論と技法.金剛出版、東京)
(3) Gill, M.: 1994 Psychoanalysis in Transition. The Analytic Press, Hillsdale, NJ, London. 
(4) Greenberg, J, & Mitchell, S.: 1983 Object Relations in Psychoanalytic Theory. Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts.横井 公一翻訳, 大阪精神分析研究会翻訳 2001精神分析理論の展開欲動から関係へ ミネルヴァ書房、東京
(5) Hoffman, I.Z.: 1998 Ritual and Spontaneity in the Psychoanalytic Process. The Analytic Press, Hillsdale, London.
(6) Stolorow, R., Atwood, G. : 1992 Context of Being. The Intersubjective Foundations of Psychological Life. The Analytic Press, Hillsdale, London.

(7) Strachey, J. : 1934 The Nature of the Therapeutic Action of Psychoanalysis. International Journal of Psycho-Analysis, 15, 127-159.