3.「仕事の時だけうつ」はあり得るのか?なまけではないのか?
現代型うつ病を論じるうえで一番のキーワードは、「なまけ」である。私たちは(特に日本人は、というべきだろうか?)なまけということに敏感だ。「自分はなまけているんじゃないか?」と常に自分に問いただしていると言うところがある。あるいは人に「なまけてるんじゃないか?」と思われているのかと常に気を緩めないようにしている。
みなさんの中に、学校を休む時に「これは病気ではなくてなまけではないのか?」と自らに問うたことはないだろうか?それでも体温計で熱が8度代以上だと、休むことに後ろめたさをあまり感じずにすむ。病気である、具合が悪い、ということを数値で客観的に示すことができるからだ。ところがうつ病のような気分の問題は、それが数値化されないだけに厄介である。現代型うつ病がこれほどネガティブなトーンで語られるのも、それが「実は本物のうつ病ではなく、なまけである」という可能性を示唆しているからだ。確かに彼らの行動には、「病気による休職期間に旅行に行く」とか「就業時間の間は元気がないのに、それを過ぎたら嬉々として飲み会に出席する」などの行動が見られることが報告される。するとそれが「仕事中だけ『うつ病』になる人たち」(香山リカ先生、講談社)となってしまうのである。
しかし実際は、一切のことに興味を失うのは重症のうつの場合で、うつが軽度の場合は、いろいろな中間状態が起きうる。あるうつの患者さんはこう言った。「うつになると、楽しんでやれるということが非常に限られてくるんです。」「友達と会っている時は精いっぱい笑顔を作り、盛り上がるようにします。そして帰るとどっと落ち込むのです。」これらの言葉は、うつ病の人が外からは生活を楽しんでいるように見えても、案外内情は複雑であることを示していると思われるであろう。
そこで2年前にこのテーマについて論じたときに、ちょっと当たり前の図を作ってみた。再びここに掲載しよう。縦軸は、ある行動の量、横軸はうつの程度を示す。
そして行動としては、快楽的な行動(自分で進んでやりたい行動)と苦痛な行動(義務感に駆られるだけの行動)を考え、それぞれがうつの程度により低下する様子を示した。うつの深刻度が増すとともに、快楽的な行動も、苦痛な行動もやれる量が下がってくる。ただその下がり方にずれがあるのだ。うつでない場合(Aのラインに相当)は、快楽的な行動だけでなく苦痛な行動も、それが必要である限りにおいては出来る。うつが軽度の場合(Bのラインに相当)は、苦痛な行動は取りにくくなるが、興味を持って出来ることは残っている。うつがさらに深刻になると(Cのラインに相当)両者とも出来なくなるわけだ。
行動を、快楽的なものと苦痛なものにわける、という論法は、故安永浩先生の引用するウォーコップの「ものの考え方」理論に出てくる。苦痛な行動は、私たちがエネルギーの余剰を持つ場合には、エネルギーのレベルを持ち上げることでこなすことができる。賃金をもらうためにだけ行う単純な肉体労働であっても、「ヨッシャー、ひと頑張りするか!」と自分を鼓舞することで、若干ではあっても快楽的な行動に変換できるからだ。(つまり行動自体は苦痛であっても、それをやり遂げて達成感を味わうための手段にすることで、それは幾分快楽的な性質を帯びることになるわけだ。「やる気を出す」、とはそういうことであり、うつの人が一番苦手とすることである。)
私が特に注意をしていただきたいのは、Bのラインの状態であり、好きなことは出来ても義務でやることは出来ないという状態だ。このような場合、好きなことを行うのは、自分のうつの治療というニュアンスを持つ。うつが軽度の場合、例えばパチンコを一日とか、テレビゲームを徹夜でする、とかいう行動がみられる場合があるが、これはそれによる一種の癒し効果がある場合であり、うつの本人にとっては、「少なくともこれをやっていれば時間をやり過ごすことができるからやらせてほしい」という気持ちであることが多い。しかしそれを見ている家族や上司は実に冷ややかな目を向けるのである。「あいつは仕事にもいかないで一日中ゲームをやっていてケシカラン。やはりなまけだ・・・・。」