昨日は日本語臨床研究会が帝京大学の臨床講堂で行われた。一人の稀代の才人を横で一日眺めるという経験をもてたわけだ。そこでひとつの発見があった。わかっている人には当たり前の話かもしれないが。脱錯覚とはひとつの発見なのだ。他人が、世界が、あるいは自分が、心に思い描いたような姿をしていなかったことを知るのは、失望の感情のみを生むのではない。それは安心感を生むのかもしれない。「自分もこのままでいいのだ」というような。脱錯覚が世界をより深く知ることにつながる限りにおいて私たちの将来には希望がある。ただし脱錯覚が「だから生きていることには意味がない・・・」につながることもある。その種の脱錯覚にはトラウマとしての意味が生じるのだ。
2.治療における柔構造性ないしメタスキルの重要性
力動的な精神療法の一つの現代的な流れとしては、上述した「基本原則」があまり強調されなくなってきていることがあげられる。そしてこれまでは二次的な、次善的な方策として考えられる傾向にあった「支持的療法」は、最近ではむしろ精神療法の中心であるというような主張もなされる。そもそも支持的療法は受け身性や禁欲原則といった精神分析の基本原則を適応できない、ボーダーラインのような病態レベルの低い患者のために考案されたという歴史がある。しかしその適応範囲が一般の神経症レベルの患者にも及ぶようになったのは、そもそも精神分析療法や探索的な精神療法が利用者にとっては敷居が高いという現状があったのであろう。探索的な精神療法で目的とされるのが洞察や自己理解の獲得であるならば、支持療法では不安の軽減や自己価値観の高まりが治療目標となる。そして実は神経症レベルを含めた患者の多くが、主として後者を求めているということが徐々に明らかになってきている。認知行動療法などの、精神分析とは大きく隔たりのある療法に人気が集まっているということもその証左となっている。
結局現代的な精神療法家は、患者のニーズを重んじて、そのアプローチを柔軟に変えることのできる能力が必要であり、逆にいえばどのようなアプローチをするにしてもその根底にあるメンタリティや姿勢が重要になる。そこに柔構造的な視点やめたスキルの重要性が強調される理由がある。
結局現代的な精神療法家は、患者のニーズを重んじて、そのアプローチを柔軟に変えることのできる能力が必要であり、逆にいえばどのようなアプローチをするにしてもその根底にあるメンタリティや姿勢が重要になる。そこに柔構造的な視点やめたスキルの重要性が強調される理由がある。
精神療法の世界では様々な治療法やそれに伴うスキルが開発されるが、それを扱う治療者といえば生身の人間である。どの患者にどのようなスキルをいつ、どのように用いるかを決める治療者は、結局スキルを超えたもの、メタスキルと形容すべきものを必要とすることになる。それは目の前の患者が何を望むのかを感じ取るのはある種の技能であり、感性ともいえる。ここでメタスキル、という言葉について言えば、この言葉ないし概念はピリチュアリズムの世界ではよく用いられる概念であり、アーノルド・ミンデルの配偶者エイミー・ミンデルの概念である。それはスキルを超えた「心理療法家・セラピストとしての『姿勢』」であるというわけだ。メタスキルの定義としては、ネットではこんなことを書いてある。(とか言ってこのブログでこの概念を使いまわすのは何回目だ?いい加減にしろよ!)
メタスキルの定義としては、治療や日常生活に現れる深いスピリチュアルな姿勢や信念と言えるだろう。治療者は彼の人生に関する根本的な信念を表現する、ということになる。実は治療的柔構造という概念も、このメタスキルと深いつながりがある。
「治療構造+メタスキル=治療的柔構造」というわけだ。
「治療構造+メタスキル=治療的柔構造」というわけだ。