2013年6月30日日曜日

精神療法はどこに向かうのか 改訂版 (2)

昨日久しぶりに胃の内視鏡を受けてみて、明らかに以前受けたものより進化していると感じた。はじめにキシロカインゼリーを仰向けのまま口に含まさせる。喉の麻酔だ。「はい、三分間我慢してください。飲んじゃいけませんよ。」と軽くいわれるが、これが結構きつい。飲んでは毒だと思い、一生懸命嚥下反射をこらえる。やっと3分たったら、「はい、じゃ飲んでください」って、結局飲むんじゃないか!! しかも苦い! でもこれで咽頭から食道にかけて麻酔はバッチリだ。それからドルミカムの静注。合法的に●を●した気分。フワーッとしたイイ気持ちになり、それから後はスムーズ。いつの間にか内視鏡は胃の中へ。モニターでバッチリ自分の胃の中を見ていた。健忘は一切残さないが、吐き気その他の記憶は全然なし。そりゃ気持ちいいわけではないが、苦痛はなし。その後40分ほど仮眠させてもらっておしまい。これなら毎日やってもかまわない。そのあとは仕事ができた。


1.治療における倫理性の重要性
文化の発展が社会による不当な規制からの解放に沿うならば、それにしたがって社会におけるさまざまな仕組みが変革され、平等主義的なものへと変わっていく。その結果としてすべての人が平等な社会に到達するわけでは決してないのは、アメリカ社会を見れば明らかであろう。しかし少なくとも「どうして私だけこの権利が奪われているのだろうか?」という発想は誰もが常に頭に思い描くことになる。権利や機会の平等性はこうして徐々に保障される方向に向かう。
 思えばそうなるまでには人類にとっては長い長い道のりだったのだ。人間の歴史は個人の権利や主張がことごとく黙殺されてきた歴史である。大部分の人間は平等な権利という発想すら持てなかったのだ。そしてそこに厳然として存在していたのが、人間の間の「力の差power differential」ないしは「力の非対称性」である。それがこの数十年で大きく変わろうとしている。
いきなり大上段に構えた話だが、精神療法的な治療関係でも実はこれは同じことだ。治療者と患者、分析家と非分析家の間には、力の非対称性が厳然として存在してきた。一方では治療者側は多くの治療経験を持ち、多くの専門的な知識を有する。そして少なくとも個人的な悩みや病を表に出さない。他方患者側は悩みや病をさらけ出し、救いや示唆を求めて治療者のもとを訪れる。これまで多くの治療者たちは、その力の差がどのように治療関係に影響を及ぼしているかを真剣に考えることがなかった。逆転移の点検に注意を払うことをあれほど強調してきた分析家たちであっても事情は同じだった。今でも大部分の治療者はそうかもしれない。しかしそのままでは済ますことができない事態が生じつつあるのである。その結果としてクローズアップされてきたのが、治療関係における倫理性の問題である。
 治療における倫理性が重視される結果としてどのような精神療法が必要になるか? これについては私がかつてまとめたことがある本「精神療法・カウンセリングの30の心得」(みすず書房、2012)に述べたとおりである。最初の原則は「自分が患者の立場に立ったらどうするかを出発点にする」という原則から始めるということである。治療者はすべての治療原則の前にこれを前提とすべきと私は考える。これは「治療者は倫理的に行動せよ」という極めて当たり前でかつ漠然とした原則よりはより現実的なものである。
精神分析の世界では、治療技法についてのさまざまな理論の展開がある一方では、この倫理に関する議論もいわば別立てで進行してきた。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、いわゆるインフォームド・コンセントを取りあげることが出来よう。治療者は患者に治療内容を説明し、それにより得られるものとそれに伴うリスクとを説明し、他にどのような治療法があるのかを提示する必要がある。患者がそれらを理解したうえで精神分析を選び取ったときにはじめて治療契約が成立するのである。
 しかしこのインフォームド・コンセントの考えは、伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであった。すくなくとも 精神分析の歴史の初期においては、分析的な技法を守ることと倫理的な問題との齟齬が生じる余地は考えられなかったといってよいだろう。精神分析的な技法に従うことは、より正しく精神分析を行うことであり、それは治癒に導く最短距離という前提があったからである。従ってそれをとりたてて患者に説明して承諾を得る必要はなく、またそれは治療者の受身性にもそぐわず、また患者に治療に対する余計なバイアスを与える原因と考えられることもあった。
 現在米国の精神分析協会では、その倫理綱領を定めているが、その中には技法とのかかわりが重要になるものが少なくない。それを抜粋するならば以下のとおりである。
米国精神分析学会における倫理綱領の抜粋
ここで特に従来の「基本原則」に触れる可能性のある条項をいくつかピックアップして列挙してみる。
分析家としての能力
自分が訓練を受けた範囲内でのみ治療行為を行う。
理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。
分析家は必要に応じて他の分野の専門家、たとえば薬物療法家等のコンサルテーションを受けなくてはならない。(以下略。)
平等性とインフォームド・コンセント
精神分析はインフォームド・コンセントに基づき、互いの同意のもとに行われなくてはならない。
立場を利用して、患者や生徒やスーパーバイジーを執拗に治療に誘ったり、現在や過去の患者に自分を推薦するよううながしてはならない。(以下略。)
正直であること
キャンディデート(候補生)は、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる。
分析の利点とそれによる負担について話さなくてはならない。
 嘘をついてはならない。(以下略。)
患者を利用してはならない
現在及び過去の患者、その両親や保護者、その他の家族とのあらゆる性的な関係は非倫理的であり、それは分析家からの誘いによるものもその逆も同じである。身体的な接触は通常は分析的な治療の有効な技法とは見なされない。
現在および過去の患者やその両親ないし保護者との結婚は許されない。(以下略。)
患者や治療者としての専門職を守ること
難しい症例についてはコンサルテーションを受けなくてはならない。
病気になったら同僚や医者に相談しなくてはならない。
患者の側からスーパービジョンを受けることを請われた場合は、その要求を真摯に受け止めなくてはならない。(以下略。)
以上に示した精神分析学会の倫理綱領(抜粋)は、精神分析における技法にどのような影響を与えるのであろうか?一ついえるのは、これらの倫理的な規定はどれも、技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではないということである。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。
 精神分析には「基本原則」としての匿名性、禁欲原則、受身性などがあげられる。倫理綱領の中でも特にこれらの「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。すなわちキャンディデートは、患者に自分がトレーニング中であること、スーパービジョンを受けていることを伝えることが強く望まれる」という項目に従った場合、分析家は自分が修行中の身であり、ケースが上級の分析家により監督されていることを告げることになるであろう。このようなことは、従来の精神分析療法においては想定されなかったことであり、現在でもそのような方針は分析家の匿名性を犯すものとして、抵抗を示す分析家も少なくないであろう。
 同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。分析家が沈黙を守ってもっぱら患者の話を聞くという姿勢は、それが患者にとって有益となる場合も、そうでない場合もあろう。それは患者によっても、またその置かれた治療状況によっても異なる。そうである以上、中立性や受身性は、それにどの程度従うかは個々の治療者がその時々で判断すべき問題となる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。
 ただし「基本原則」の中で禁欲原則については、少し事情が異なる。なぜならこの原則は倫理原則にある意味では合致した原則と考えられるからである。フロイトの「治療は禁欲的に行われなくてはならない」というこの原則については、禁欲する主体が治療者か患者かという問題について曖昧さが残るが((小此木、その他編: 精神分析セミナーIII フロイトの治療技法論. 岩崎学術出版社,1983年)、通常はそれを治療者側のそれと患者側のそれとに分けて議論される(Renick, O.: Practical Psychoanalysis for Therapists and Patients. Other press, 2006.)。このうち「治療者側は治療により自分の願望を満たすことについては禁欲的でなくてはならない」とするならば、それはまさに倫理原則そのものといっても過言ではない。また逆に「治療者は患者の願望を満たさすことには禁欲的でなくてはならない」とするのであれば、これは上述の意味で相対化されるべきものであろう。なぜなら患者の願望の中にはかなえられるべきものとそうでないものがあるであろうし、一律に患者の願望をかなえないという原則を設けることは、非倫理的との批判に甘んじなくてはならないであろうからだ。