2013年7月16日火曜日

こんなの書いたなあ (13)

「児童心理」 特集:裏表のある子 20124月号 金子書房 所収 

 ペルソナと解離 ― 人格の表と裏を考える 
                                    
はじめに
金正日の没後、北朝鮮で放映されたちょっと異様な光景。市民が泣き叫び、拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。深い悲しみに浸る時、人はああはならないことを知っている人は、そこに不自然さを感じる。彼らは本当は何を思いながら、泣いている(あるいはそれを装っている)のだろうか? しかし裏では何を考えていようと、表では嘆き悲しまないと罰せられてしまうというあの北の国では、表裏を正確に使い分けられるかどうかはむしろ死活問題である。それは極めて適応的な防衛機制とさえいえる。そして私は考えた。「純真無垢な子どもたちには、あんなことはできないのではないか? 彼らの中には弔問に借り出されても、演技を仕切れずにボーっとしているだけの子もいるのではないか?
ちょうどその時、テレビの画面には、弔問に訪れる一群の子どもたちの姿が映された。すると ・・・・。子どもたちはとても「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているのがミエミエな大人たちに比べて、彼らはもっと自然に泣いているように見える。もちろん彼らは児童劇団に所属する演技のうまい優等生たちなのかもしれないが、そうでないと仮定したなら、いったいなぜなのだろう? そして私は次のように了解した。子供たちは裏表を分けることが本来得意ではないのである。彼らはいわばペルソナを持つことが苦手である。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。それは彼らのつく嘘についてもいえる。彼らの嘘はある意味では本気でもある。彼らは現実にはないことを言いながら、その虚構の現実に生きているというところがある。そこが裏表を使い分けることのできる大人(つまり私たち自身のことである)と違うところだ。
「裏表のある子どもたち」、というテーマに関する私のこの一文の書き出しは、多少なりとも逆説的に聞こえるかもしれない。裏表を持つということは通常はネガティブな意味を持つが、それをある種の達成でもあると主張しているのだ。そしてその背景には、私が日ごろの臨床で触れることの多い解離性障害の患者たちとの体験がある。彼女たちもまた裏表の使い分けが非常に不得手なように見受けるからだ。そして彼女たちは幼少時にある共通した原体験を有しているようである。それは親との関係で自らのあるべき姿を、少なくとも主観的には強いられているという体験なのだ。
幼児体験と解離性の病理の萌芽
たとえば次のような親のメッセージを受けた子供について考えてみる。
「あなたはお姉ちゃんなんだから、いい子に出来るわね。弟にやさしくしなくちゃだめよ。」
その時娘の心には様々なことが起きうるだろう。「エー、そんなの無理だよ。」と頭から聞き入れないかもしれない。あるいは「そうか、私はいい子にしなくてはいけないんだ。」と納得して態度を改めるかもしれない。どちらもありうるパターンであろうし、それぞれの場合に大抵の子どもの心はおさまりどころを見出すのだろう。しかし問題は、娘がそれらのいずれも選べずに、母親により押し付けられたいい子としての自分(これを仮にAと呼ぶことにする)と、わがままで弟をいじめたりライバル視したりする本音の自分(こちらはA’としよう)という相互に矛盾した自分を持たざるを得ない場合である。その場合私たちは通常は次のようなシナリオを想定するのではないか?
娘は心の中で「お母さんの前ではいいお姉ちゃんの振りをしておこう。」という計算を働かせる。そうして本心とは裏腹にAを演じて見せる。Aは彼女にとってのペルソナになり、そして親や大人の見ていないところでA’の方を発揮する。娘はこうしてAA’の使い分けを覚え、先生や上司がいるときといない時で態度を変える術を学んで成長し、裏表のある大人になるのである・・・・。
私はこのようなシナリオを特に否定はしない。そういうケースのほうがむしろ普通なのだろう。ただ解離性障害を扱う立場からは、私は子供の心のあり方としてもう少し別のバージョンを考えるようになっている。母親から「あなたはお姉ちゃんなんだから…」と言われた娘は、必ずしもそれを演じるわけではない。一時的にではあれ、母さんの心にある、いい子である自分のイメージAをそっくり取り入れるのだ。するとたとえばいつも憎たらしく感じる傍らの弟を実際にいとおしく感じ、優しくその頭をなでるかもしれない。こうして彼女は「いいお姉ちゃん」としての自分をその時に生きることになる。それは複雑な脳のプロセスを経ているにもかかわらず、瞬時に彼女の中で生じるのだ。ただしA’、つまり「いいお姉ちゃん」ではない、わがままで甘えたい、そして弟をライバル視する面もたいていの子供の場合は持つはずだ。
やがて成長するにつれてたいていの場合彼女はAA’をうまく使い分けるようになるだろう。そこからは先ほどのシナリオと同じである。彼女はAを表に出している際に、A’を裏に控えさせ、それを出すタイミングをうかがうようになり、裏表を使い分けられるようになる。しかしそれをできないほどにAA’が独立した人格として、別個にふるまう場合がある。それが解離の病理を持つに至る準備状態と言えるのだ。
ところでこの解離という心の性質は実はこれまでさまざまな臨床家により記載されてきた。半世紀以上前に活躍した英国の精神分析家ドナルド・ウィニコットもその一人である。彼は母親から強いられ、それに反応する形で形成される自己を「偽りの自己」と呼び、自らの純粋な自発性の表現としての自己を「本当の自己」と呼んだ。この両者の分離がウィ二コットの言う解離であるが、現代的な意味での解離は、その分離が極端に進み、それぞれの自己が意識野を支配し、互いに排他的に振舞うことを意味する。ウィニコットの「本当の自己」は決して表には出ないものとして想定されたが、それさえも姿を現して動き出すのが解離性障害というわけである。
この解離の話を続ける前に、どうして彼女は母親のメッセージからよい子のAちゃん人格を作り出すことができるのかについて考える。その理解の助けとなるのがおなじみミラーニューロンの発見であった。
ミラーニューロンの貢献
(以下略)