2013年7月17日水曜日

こんなの書いたなあ (14)

こんな論文、書いたことすら覚えていなかったとは、どういうことだろうか?

こころの科学154 境界性パーソナリティ障 害(2010年) 所収

医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害
はじめに
本稿は「医原性という視点からの境界性パーソナリティ障害(以下BPDと表記する)」というテーマで論じる。ここで医原性のBPDとは、医師ないしは治療者により二次的、人工的に作り上げられたBPDという意味である。ただしここでいう「作り上げられる」には、以下に述べるように実際の病理が作られてしまうという意味と同時に、もともとあった病理がさらに悪化したり、実際はBPDとはいえないものが、そのように誤診ないし誤認されてしまうという場合も含むことにする。
BPDの臨床を考える上で、この医原性の問題は非常に重要なテーマである。後に述べるとおり、現在の精神医学におけるBPD のあり方を考える際にも医原性の問題は現代的なテーマとなりつつある。しかしこの問題はまたBPD という概念がネガティブなイメージや差別的なニュアンスを担い始めた時に、すでに存在していたとも考えられる。歴史的には、類似の例として「ヒステリー」の概念があげられるだろう。ヒステリーは「本当の病気ではないもの」、「気のせい」、「詐病」、あるいは「女性特有の障害」として、やや侮蔑的な意味で用いられたという経緯があり、治療者側のそのような偏見が、ヒステリーという診断の下され方に大きく影響していた可能性がある。そして現代においては BPD が同様の役割を背負わされているというところがあるのだ。
BPD の患者は治療者の間でしばしば「厄介者」のように扱われる傾向にある。スタッフ同士の会話の中で「あの人はボーダーだね」という表現がなされる場合は、過剰な感情表現や行動面での奇抜さ、治療者への批判的態度、自傷行為などのために扱いが難しいケースを指し、その患者が厳密な意味でBPD の診断基準を満たしているかどうかはあまり問われない傾向にある。すなわち治療者の主観がBPD の診断や理解に非常に大きな影響を与えているということになる。そしてそれがBPD が人工的に作りあげられたり、治療者のかかわりがその症状をかえって悪化させたりするという問題を生んでいると考えられる。それはBPDを治療する環境を著しく阻害することにもつながりかねない。
この問題についてもう少し詳しく論じるにあたり、筆者自身が BPD について、論じてきた内容に立ち戻りたい。筆者はかつて「ボーダーライン反応」という考え方を示したことがある(1)。そこでの筆者の主張は、以下のとおりであった。
BPD は私たちが持っている、対人関係上の一種の反応形式が誇張されたケースである。人はみな心のどこかに、「自分は生きている価値などないのではないか?自分はだれからも望まれたり愛されたりしていないのではないか?」という疑いを持ち、日ごろはそれを否認しながら生きている。しかし時々人から裏切られたり、仕事で失敗を繰り返したりした際に、この疑いが再燃する。すると人は不安に耐えられずに、自分を受け入れない人々を攻撃したり、他人にしがみつき、つなぎとめたりすることに全力を奮うのである。
簡単にいえば、人はだれでも精神的に危機的状況ではBPD 的にふるまう可能性がある、という主張である。このBPD的な振る舞いとは、原始反応にもなぞらえることができるであろう。身体的な侵襲に曝された際には、人は理性的な判断に従う代わりに、より本能に根差した反応を見せる。その代表がいわゆる「闘争逃避反応」(2) であるが、ボーダーライン反応もそれとニュアンスが似ている。人は精神的な危機状況に立たされた時に、それを回避するために、結果を省みない唐突な行動を起こすのだ。ただし 闘争逃避反応が 天敵への反応だとすると、ボーダーライン反応においては対人関係における危機、例えば恥をかかされる体験、人に去られる体験、あるいは対人関係上の外傷一般への反応として生じることになる。
この問題にどうして医原性のテーマが絡むかといえば、この対人関係における危機は、治療者患者関係の中でしばしば尖鋭化された形で再現される可能性があるからである。そして治療者はまた、その患者に診断を下す一番身近な距離にあると言えるのである。

治療者という名の権威者
「医師という仕事は少し経験を積むと、診察室の癖が身について、相手を少々見下す姿勢になりやすい」とは、ある熟練の精神科医の言葉である(3) 。そしてこのことは医者に限らず、臨床現場で患者に向きあう心理士や看護師等の治療者一般についてもかなりの程度言えることだろう。治療者は自分でも意識しないうちに、患者より高い立場の人間として、すなわち権威者としてふるまうようになる事が多い。それにつれて治療者の自己愛が膨らんでいくと、患者が示す僅かな抵抗や反発も、自分に対する挑戦や、自分のプライドを傷つける行為に感じられ、それが治療者の心に恥や怒りの感情をさそうことがある。
このような治療者の感情的な反応は、精神分析的には逆転移感情として理解し、処理すべきものといえる。しかしこれについて治療者自身の気付きや自覚が十分でないと、治療者はそれを行動化により表現してしまう可能性が高まる。例えば治療者は「おとなしく私の治療方針を受け入れないと、あなたとの治療を中止する」というメッセージを暗に与えることになるかもしれない。するとそれは患者の側に深刻な怒りや恐れの感情を生み、患者に先述の「ボーダーライン反応」を引き起こすかもしれない。それを見て治療者は患者がいよいよ実際のBPDであることを確信してしまうこともある。このようなプロセスを経て生まれた「BPD患者」はまさに医原性のものと言えるだろう。
臨床場面でよく聞く言葉に、「操作的 manipulative 」がある。これは「あの患者はあの看護師に私の悪口を言って、私を悪者にしようとしている。操作的な態度だ。」という風に使われる。そして同じような文脈でやはりよく聞くのが、「スプリッティング splitting 」である。こちらは「患者は治療チームを自分の敵と味方にスプリットしようとしている」という風に使う。どちらも患者の振舞いを端的に抽出していると言えなくもないが、同時にこれらの言葉ほど濫用されるものはない。
筆者は日頃学生や心理療法家たちに「患者さんの操作的態度とか、スプリッティングとか言うが、操作やスプリッティングを患者にされてしまう側にも問題がありますよ」と言うことが多い。治療者は自分が患者に感情的に動かされるような気がして不安に感じた時に、「あの患者は操作しようとしている、だからボーダーラインだ」、と考える傾向にある。このような概念を多用する治療者には、実は操作やスプリッティングはする側とされる側があって初めて成立するのだ、という視点が希薄なようである。というのも治療者の方がどっしりと構えていれば、簡単に操作され動かされる筈はなく、「この人は操作的だ」、というような発想もそれだけ少なくなるからだ。
たとえば小さい子供が父親に対して「これ買ってくれないと、もうパパと口なんかきかないからね。」とか「パパなんて嫌い。ママなら買ってくれるって言っていたから、ママにきいてみる」と言ったとしよう。しかし「この子はすでに5歳で、親を操作しようとしている。実に末恐ろしい」などとは思わないだろう。それは親が事態に余裕を持って対応できるために、そのような子供の意図をあまり問題にする必要がないからだ。ところが治療者の方がその余裕が奪われ、実際に患者さんの望むとおりに動いてしまたことに気がつくと、たちまち患者さんのことを「操作的」と判断することになるのだ。
治療構造と医原性のBPD
伝統的な精神分析理論に従った教育を受けた治療者は、結果的に医原性のBPDを生む関わりをしてしまう可能性も指摘されている。この点は後に見る Gunderson Fonagy らの主張に通じている。そしてそこでしばしば問題となるのが、治療構造の概念である。
精神分析において特に価値がおかれるいくつかの概念があるが、治療構造はそのひとつである。フロイトがその概念の基本を提出し、わが国では故・小此木を中心に論じられた治療構造 (4) の概念は、分析的な精神療法において必須であり、患者および治療者に安全で治療的な環境を提供するものとして理解されている。
もちろん治療構造自体があまりに硬直化したものである場合には、それが非治療的となりうる、という主張を受け入れる治療者は少なくないであろう。しかし治療構造自体があいまいで、境界が不鮮明だったり、それを守るべき治療者の態度にブレが生じた場合の弊害に関する主張に比べれば、ほとんど聞かれないのが現状であろう。
治療構造論をライフワークの一つとした小此木の生前の言葉に「僕は、治療構造をちゃんと守らないところがあるから、あえてあのような理論を作り、自らを戒めたのだ。」というものがあった。この言葉に見られるのは、やはり治療構造はきちんと定め、それを遵守することが最善であるという考え方であろう。しかしこの治療構造の重要さを強調する分だけ、治療構造を遵守できない、あるいはその維持に抵抗を示す患者を問題視し、そこに病理性を見出す傾向も強くなる。
治療構造を重視する臨床家に大きな葛藤を生むのが、患者の求めに従う形で治療構造の維持に例外を設けることである。ある患者が通常の定期的な面接の枠組み以外に突然現われ、治療者に面談を要望したとしよう。何か特別の事情があるらしいことが伺える。そのような際に分析的なオリエンテーションを重視する治療者は、その要望の唐突さやアクティングアウト的な要素に注意を奪われて、緊急の面談要求を拒否する可能性がより高いであろう。あるいは簡単に事情を聴く程度のことは行っても、要求どおりにセッションを設ける可能性は少ない。もちろん臨時のセッションを提供する時間的な余裕がない場合は論外だが、たとえあったとしても、治療構造に例外を設けることに対する懸念からその要求を拒否する可能性がある。
しかし患者の側にはその拒否の理由が即座には理解出来ない場合が少なくない。そして「治療構造を守ることが大切である」という治療者の側からのメッセージは、治療者にとっては半ば当然のことのように思えるのに、患者の側からは理解できないという事態が生じることになりかねない。筆者の臨床経験では、このような経緯による治療者患者間の理解のずれもまた、治療者が患者の態度を必要以上に「操作的」で挑戦的な態度とみなし、そこにBPD的な要素を見出す原因として大きいという印象を持つ。

(以下省略)