2013年7月4日木曜日

こんなの書いたなあ (1)

今日からこれまでにいろいろなところに書いたものを集めてみる。他意はない。


精神療法誌39巻4号特集エッセイ (2013年)

認知療法との対話 
             
「面談」はすべてを含みこんでいる
私は認知療法を専門とはしていないが、分析的な精神療法の過程で、あるいは精神科における「面談」の中で、患者と認知療法的な関わりを持っていると感じることがある。特に患者の日常的な心の動きを一コマ一コマ患者とともに追うことはそのようなプロセスと認識している。
そこでまず、あまり問われていないが重要な問題について論じたい。精神科医が行う「面談」とはいったいなんだろうか? 医者が患者とあいさつを交わし「最近どうですか?」などと問う。患者はその時頭に浮かんだことや、あらかじめ用意しきてきたテーマについて話す。場合によってはそれが5分だったり、10分だったりする。これほど毎回行われる「面談」の行い方の教科書などあまり聞かないが、それはなぜだろうか?
 「面談」の特徴は、基本的には無構造なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談として扱われるかもしれない。しかし二人の人間が再会する最初のプロセスは非常に重要である。相手の表情を見、感情を読みあう。そして精神的、身体的な状況を言葉で表現ないし把握しようと試みる・・・。ここには認知的なプロセスも、それ以外の様々な交流も生じている可能性がある。「面談」を教科書に著せないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。
私は数多くの「~療法」の素地は、基本的には「面談」の中に見つけられるものと考える。人間はそんな特別な療法などいくつも発見できないものだ。だから私は認知療法にしても精神分析にしても、互いに独立した独特な治療法だとは考えない。
「面談」の特別バージョンとしての認知療法
私はこのように、認知療法を「面談」の中で日常生活に現われる情緒的、認知的なプロセスを拡大して扱うバージョンとしてとらえる。その効果的な面としては、「面談」のうち無構造で焦点が定まらない部分は最小限に済ますことができるだろう。またノートを持参して一週間の振り返りをすることを好む患者もいるだろう。しかし治療者が最初から認知療法以外を施す気がなく、それを患者に押し付ける場合は逆効果となるはずだ。もちろんそれは認知療法についてのみ言えることではない。
これも認知療法以外にも当てはまることだが、治療状況によっては実際の「~療法」を行っている時間が短くなってしまうことも多々あると聞く。特に患者の身に大きな出来事があったなら、「面談」の段階でそれを話そうとする患者を制して「それでは早速EMDRを始めましょう」とはならないはずである。そのように考えると、どのような特殊な療法も、結局は結局「面談」を主体にして、それに「~療法」の部分を適宜はめ込んでいく、という考え方のほうが無難ではないだろうか?
それではそもそもの精神療法の主体となる「面談」をより豊かにするために、認知療法のトレーニングは有効なのだろうか?おそらくそうであろうと思う。認知療法的な要素を「面談」に組み込むとしても、そのトレーニングを経ていないとしたら、それを臨機応変に用いる能力は限られよう。以下にそう述べる理由を書いてみよう。
まずは認知療法における自動思考の考えについて。All-or-nothing thinking (全か無かという考え)、Catastrophizing(これは大変だ、とすぐパニックになってしまう)、Disqualifying or discounting the positive(ポジティブなことに目をつぶる)Emotional reasoning(感情的に推論をする)、Labeling(レッテルを貼る)、Magnification/minimization(過大/過小評価する)などなど。実は私はこれらの概念に非常に重宝しているとは言えない。結局アーロン・ベックが示したこれらの自動思考は、オールオアナッシング、あるいは精神分析でいうスプリッティングの考え方をいろいろ言葉を変えて表現しているだけという気がする。人間の心の根源的な性質であるスプリッティングを深く理解することは、認知療法以外でも、例えば精神分析でも必須なのである。しかしこのようなネーミングとともに患者に告げることには効果があるかもしれない。
そこでそれ以外に認知療法をフォーマルに行なう訓練を行うことで、日常の「面談」を豊かにする可能性について考える。私の理解する認知療法は、患者の日常生活にみられるような「パターン」の探求であるが、これに特化して行うことは、かなりきついプロセスでもある。
たとえば「人に問題を指摘されると、すぐ逆ギレしてしまう。」というパターンを有する人について考えよう。その具体的な体験は患者にとってはあまり思い出したくないような、恥ずかしい、情けない体験だろう。その反省のプロセス全体が、「ダメ出し」というニュアンスを含み、よほどエネルギーや治療意欲がない限りは、毎回のセッションの多くの時間をこれに費やすのは相当つらいだろう。もちろん私はこのプロセスが不可能と言っているのではない。たとえばPTSDの治療の一つである暴露療法では、毎回トラウマの状況を疑似体験して慣れていくというかなり過酷な治療が行なわれるが、その有効性が確かめられている。
しかし中には最初は認知療法を望んでも、途中で耐えられなくなったり、方向転換を望んだりする人もいる。多くの患者はむしろ癒しを求めて、「それでいいんですよ」という肯定の言葉を求めて治療者のもとに通うことになるかもしれない。すると結局時々そのような認知療法的な試みを適宜組み込んだ一般的な「面談」というところにまたしても落ち着くことになるのだ。
認知療法とはアクセルを踏むこと
私はこれらを「アクセルを踏むタイミング」の感覚と考える。感情、行動パターンを探求する、暴露的なプロセスを行う、などを能率的に行うためには、患者の側のモティベーションと体力、精神力が必要である。もしどちらかに問題があれば、アクセルを踏む力を抑えなくてはならないのだ。
こう考えるとフォーマルな認知療法を行うという経験を持つことは、いざとなったらそれに移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら、つまりいつでもアクセルを踏むことができる用意を持ちながら、「面談」を行うことができるようになることの助けとなるだろう。ケースによっては自分の持っている問題あるパターンの本質を的確に捉えた、能率を重視した治療を望むかもしれないのだ。そのような時に認知療法のアクセルを踏めるようにしておくのだ。
認知療法を行う経験を持つことで改めて知るもう一つのことは、宿題を提供したり、ノートを用いたりすることの意味を認識することである。私のクライエントで、ノート持参の方は結構多い。彼らはそこに書かれた内容を読み上げたり、面談の内容を書き付けたりする。精神分析療法では、それらのことはご法度とされることが多い。治療場面で起きた生の体験を言葉で伝え合うことの意義が強調されるからだ。しかし患者にとってはこのような具体的な手続きが有効となる場合も否定できない。
結局は認知療法をどのように捉えるか、という問題は、汎用性のある精神療法をどのように定義し、トレーニングし、スーパービジョンしていくか、という大きな問題につながってくる。認知療法も、EMDR も、暴露療法も、森田療法も、効果が優れているというエビデンスがある一方では、汎用性があるとはいえない。つまりそれを適応できるケースはかなり限られてしまうということだ。すると認知療法家であることは同時に優れた「面談」もできなくてはならないことになる。
 
「汎用性のある精神療法」の中での認知療法的な要素
このあたりで「面談」を「汎用性のある精神療法」と呼び変えて論じよう。私が通常の「面談」にこれまでかなり肩入れしてきたのは、これが患者一般に広く通用するような精神療法を論じる上での原型となると考えたからであった。「汎用性のある精神療法」とはいわばジェネリックな精神療法、と言えるだろう。私は認知療法のトレーニングを経験することで、この「汎用性のある精神療法」の内容を豊かに出来る面があると考えるし、それがこの小論の一つの結論と言える。といっても、「汎用性のある精神療法」を認知療法的に組み立てるべきである、と主張しているのではない。「汎用性のある精神療法」はいずれにせよさまざまな基本テクニックの混在にならざるを得ず、いわば道具箱のようになるはずだ。そしてその中に認知療法的なテクニックも入ってこざるを得ないということだ。
ちなみに私は「汎用性のある精神療法」に当てはまる原理は倫理則であると考えるし、そこに30の基本指針を考えて本にした(心理療法/カウンセリング 30の心得』みすず書房、2012年)。
「汎用性のある精神療法」についてもう少し述べたい。私は臨床家は「何でも屋」にならなくてはならないというつもりはない。しかしいくつかのテクニックはある程度は使えるべきであると考える。試みに少し用いてみて、それが患者に合いそうかを見ることが出来る程度の技術。それにより場合によっては自分より力になれそうな専門家を紹介することもできるだろう。臨床家が使えるべきテクニックのリストには、精神分析的精神療法も、おそらく暴露療法も、EMDRも、箱庭療法も候補としては入れるべきであろう。そしてそこに認知療法も行動療法も当然加わらなくてはならない。
 精神医学やカウンセリングの世界では、学派の間の対立はよく聞く。認知療法はとかく精神分析からは敬遠される、という風に。しかしこれからの精神療法家はむしろ両方を学び、ある程度のレベルまでマスターすることを考えるべきだろう。なぜなら患者は学派を求めて療法家を訪れるわけではないからである。彼らが本当に必要なのは優れた「面談」を行うことのできる療法家なのである。