2013年6月10日月曜日

精神療法はどこに向かうのか(3)


3回くらいの予定、ということは今日でおしまいなのか?まあいいや、考えながら書くということで。どうせ誰も読んでいないし。
おそらく私は精神療法を受けるという体験から、そして分析を受けるという体験から、そして自分が患者との面接を行うという体験から、ことさらこの「力の差」のことを敏感に感じているに違いない。それだけにこだわりのあるテーマなのだ。治療者が問題を抱えた、あるいは自分の人生を見つめたいと思った患者に対して専門家としての立場から援助を行う。そのような状況でどうしてこの「力の差」が生まれてしまうのだろうか?それは一方が他方を援助するという権力構造そのものに由来しているのである。そして私は自分がおそらく一番専門家としての経験を持っているものの一つである精神分析においてもそれを痛切に感じてしまう。(ただし精神科医療もその典型の一つかもしれないが。)
 精神分析は患者の病理を知り、それを解釈する。その構造そのものに実は非常に大きな違和感を持つことが多い。「どうしてこの治療者は自分がそこまで知っていると思うのだろう?所詮他人の人生なのに。」
思えば私自身がかつて受けた精神療法の体験も、スーパービジョンの体験も、自分の生活や治療体験に一方的に口出しされるのが嫌だった。「分かってないくせに。」これはとても反抗的である。精神療法やスーパービジョンは自分から進んで受けるものだろう。それなのにそこで受ける解釈やアドバイスになぜ反抗するのか?それはこの歳になってあえて言わせてもらえば、私を扱った精神療法家やスーパーバイザーが、一方的に理屈を持ち出してきているという印象を与えたからである。そこにかけていたのは、democratic な、平等性の雰囲気だったのだ。おそらく私はもっぱら自分の立場を「分かって」もらいたかったのだろう。しかし相手は対案を出してくる。ダメ出しをしてくる。それではこちらの心が折れることが多い。どうしてそのような事態が生じるのか?それは識る人としての治療者やバイザーがその高みから言葉を発するからだ。言葉は上から降ってくる。それに患者は不満を覚える。

ただしこのような治療の一方向性は、「力の差」のみからは説明できないかもしれない。たとえば患者の側がすでに識者としての治療者の言葉を最初から受身的に受け入れる立場に甘んじている可能性がある。あるいは治療者側が役割意識から知識の伝達という形をとるのかもしれない。また私自身の「反抗的」な態度についても少し釈明しなくてはならない。素晴らしい洞察やアドバイスをもらった時は素直にそれに心を動かされたこともあったのだ。そのような瞬間は何度も思い出すことが出来る。