2013年6月7日金曜日

精神療法から見た森田療法 (まとめ)


今日は朝雨が降りそうだった。「おかしいじゃないか。今は『梅雨の中休み」のはずなのに」、と不満に思った。人間はわがままである。


森田療法の話にふたたび戻って、取りあえず完結させておく。こんな話だった。

治療者の持つべき姿勢はメタスキルに通じる、ということでもう少し言うならば、こんなことも言えるでしょう。「他人に対して愛他的である」、「他人の考え方に対して寛容である」「患者の訴えに臨機応変に対応する」「患者が何を欲しているかをいち早く察知する」は私が言うところの姿勢だと思います。しかしこの事をテキストで教えられるでしょうか?森田療法的なスタンスとは、「まあ肩の力を抜いて。焦らずに。症状を取り去ることに躍起とならずに。」という感じでしょう。しかしこれはテキストでは教えることが出来ません。その場で患者を前にしてその心の動きを察知しながら選ばれる言葉や態度によってのみ伝えられることなのでしょう。

以上をまとめると、私の精神分析的な考え方と森田療法とは、双方がメタスキルとしての意味合いを持つという点で共通している、ということが出来ると思います。しかしそれは同時に、森田療法の神髄はおそらく語れないであろうということを認めることにもなります。それはメタスキルが言語では語りきれないのと同じ理由からです。

死と向き合う森田療法

もう一つ私が論じたいトピックが死と向き合う意味についてです。森田正馬先生が死への恐怖と戦ったことはよく語られていますが、森田療法において死をどのように扱うかは重要な問題です。これについて精神分析でどのように扱っているかを少し述べてみたいと思います。それは具体的にはIrwin Hoffmanという分析家の業績です。おそらく森田が十分に扱いきれなかった問題を彼が扱っていると私は考えますので、それをこれから述べさせていただきます。

<ここに「ホフマンの死生学」がはめ込まれる。>

・・・・・ということで、ホフマンを通してみる死生観とは、私なりにまとめると次のようなものです。

「死すべき運命に対する私たちの態度は、常に失望や不安と対になりながらも、それを現在の生の価値を高める形で昇華されるべきものであるということだ。死は確かに悲劇である。しかし悲劇は人を強くする。外傷は私たちを脆弱にし、ストレスに対する体制を損なう。しかし悲劇は違う。悲劇は私たちが将来到達するであろうと自らが想像する精神の発達段階を、その一歩先まで推し進めてくれるのだ。」

このような観点は、メタスキルというよりは、メタ認知と言えるのではないでしょうか? 自らの生を、死のバックグラウンドとして見ること。自らの生を死との対比によりより意義深いものにすること。ここに森田の考え方との共通性と微妙な違いも見ることが出来るのでしょう。森田は、「死への恐れは、生に対する欲望の裏返しである」という言い方をしていると思います。生への欲望があるからこそ死を恐れることになる。しかし森田のこの言い方に私は少し突き放された感じがあったのです。私が森田の事をよく知らないのが原因でしょうが、「では生への欲望を抑えることが死への恐怖の克服につながるのか?」という風に言われていると感じてしまうのです。その点ホフマンの示唆はもう少しその点をクリアに示していると思えるのです。それは「死の恐怖は、それを現在の生と切り離すことから生じる。両者を表裏のものとして見ることで『克服する』というよりはより現実的にそれを生きることが出来る」というメッセージなのです。

私は桜のたとえをよく出すのですが、ここでも考えたいと思います。

森田なら、「桜の花が散るのが怖いのは、さくらを愛(め)でたいという願望が強いからだ。」

ホフマン流の死生観なら「桜の花を愛でるという行為は、それが散る運命を知っていることによりより深い感動を生むのだ。」ちなみにこれはフロイトの「移ろいやすさの価値は、時間における希少の価値である」(「無情について」)と呼応したものです。

おしまい。