2013年6月8日土曜日

精神療法はどこに向かうのか(1)


「大人の事情」は続く。しばらく休業にしようと思っていたのに。今度は「力動的精神療法はどこに向かうか?」を考えない事情が生じている。これを8月くらいまでにきちんと考えないと、人に迷惑がかかることになる。(ナンの話だ。)でも表題が長いから、「どこに向かうか?」に省略。
どこに向かおうといいじゃないかって?いやいやそういうわけにはいかない。ほかにも「~がどこに向かうのか?」を考えていらっしゃる先生方もいるし。(ナンの話だ?) 例えば森田療法は、どこに行くのか?とか。
まずはいくつか思いつくところを書こう。
おそらく倫理的な配慮はこれからもさらに必要となるだろう。クライエント中心の精神療法。伝統的な精神分析はそれなりに行われるであろうが、クライエントフレンドリーとは言えない。もっと患者の要望を取り入れるような精神療法。こんなことを核と精神分析から反発は必至だろうな。
それともう一つはメタスキルとしての精神療法。これは言葉にはしにくい、というよりはできないスキルという話もしたが、今後の精神療法では、その種のスキルの重要性も鑑みた議論がなされるべきだろうか?
笠原嘉先生の「小精神療法」。彼が半世紀ほど前に唱えた概念がやはり大きな意味を持っているように思える。精神療法のエッセンスを凝縮したような概念だ。
私自身の提唱している「治療的柔構造」。「小精神療法」との兼ね合いで。あるいは倫理的な配慮との兼ね合いで。クライエントのニーズに対応しつつ、治療者の人間的な感性と限界を加味しながら行われる治療。

私がここに列挙した姿勢は、クライエントフレンドリーということで一貫しているが、それはそのような姿勢を保っていてもクライエントが直面しなくてはならない現実を視野に入れての話である。私がここ数日書いている死すべき運命としての人間のあり方。やがて不可避的に訪れる治療の終結、別れを直視するのは治療のもう一つの役割であることは言うまでもない。その意味では支持療法は精神療法の究極のあり方とは必ずしも思っていないのである。