2013年6月6日木曜日

ホフマンの死生学(4)(最終回)


こうしてホフマンはいよいよ彼の死生観を明らかにしていくのだが、それは「単純な絶望でも単純な自己-主張や自己-超越でもなく、矛盾した態度の複雑な混交が、死すべき運命の省察的な態度の極致なのだ」ということになる。そしてそれがサルトルやメルローポンティなどの実存哲学の残したものでもあるという。それは「自己の喪失の予期に関する恐怖と不安や、自分の人生を所有しているという感覚に伴う歓喜は、同じ体験の中で分離できない側面である」ということである。
最後にホフマンはある調査研究の報告をするが、それは彼の死生観がよって立つ体験といえる。それは子供が致死的な病に冒されたときの親の態度に関する研究である。親たちは子供に残された時間が短くなるにつれ、子供とのコミュニケーションを大切にし、子供の短い人生が勝ちあるものであったということを確証しようとする。それはフロイトが「移ろいやすさの価値は時間の希少さである」といったことそのものである。
ホフマンがこの論文で強調するのは、おそらく死すべき運命に対する私たちの態度は、常に失望や不安と対になりながらも、それを現在の生の価値を高める形で昇華されるべきものであるということだ。死は確かに悲劇である。しかし悲劇は人を強くする。外傷は私たちを脆弱にし、ストレスに対する体制を損なう。しかし悲劇は違う。悲劇は私たちが将来到達するであろうと自らが想像する精神の発達段階を、その一歩先まで推し進めてくれるというのだ。
私はここでスティーブン・ジョッブスのある演説の一部を思い出す。
When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

つまり十全に生きるということは、明日死ぬという覚悟があってもやるであろうことを毎日積み重ねていくということだろう。もしそうでない人生なら、それは何かが間違っているというのだ。