ホフマンはその次にフロイトの「無情について」(1916)という論文を取り上げる。そしてこの論文は、実は死についてのフロイトの考えがある地点にまで到達していたとする。この無情についての原題(といっても英語版だが)は、on Transience である。つまりは「移ろいさすさ」というような意味だ。この論文でフロイトはこんなことを言っている。「移ろいやすさの価値は、時間の中で希少であることの価値である」。そして美しいものは、それが消えていくことで、「喪の前触れ」を感じさせることでその美しさを増すのだ、と主張するのだ。そしてこれが詩人や芸術家の美に関する考え方と異なる点を強調する。彼らは、美に永遠の価値を付与しようとする。それはそうだろう。詩にしても絵画にしても、それが時間とともに価値を失うものとしては創られないだろう。いかに永遠の美をそこに凝縮するかを彼らは常に考えているからだ。
ここで私の思い付き。花の美しさはどうか。やがて枯れてしまうから美しく感じるのか。(人間の美しさを例に出そうと思ったが、あまりに生々しいので、花にしよう。)美しいと思った花が、実は「決して枯れない花」(すなわち造花)だと知った時の私たちの失望はなんなのか?フロイトの言うように、花はやがて枯れると思うから美しいのではないだろうか?しかし考えてみれば、芸術とは、いかに美しい造花を作ることではないのだろうか?美しい花を描いた絵は、結局は一種の造花ではないか?いやこんなことを言ったら、絶対芸術家から反発を受けるだろう。だからあくまでも私の思い付きである。
ともかくもこのようなすぐれた考察を残しながら、フロイトは結局死すべき運命への気づきを彼の精神分析理論の体系の中に組み込まなかった。その意味で彼の理論は反・実存主義であったとホフマンは言うのだ。
フロイト以後死すべき運命についてそれを理論体系に加えた分析家として、ホフマンはコフートを挙げる。コフートは人生の最後に向かって直面する脅威は、人生の早期の脅威、すなわち崩壊不安に呼応するという。ただコフートはそれをフロイトの不安の体系に組み込もうとせず、むしろそれとは全く異なるものとしてしまうことで多くを失っているという。そしてホフマンは提案するのだ。次のような不安の序列を考えた場合、死への不安を整合的に組み込む手段といえないだろうか?つまり崩壊不安→対象喪失の恐れ→対象の愛の喪失の恐れ→去勢不安→道徳的な不安→死への不安という、発達に即した不安の連続性である。さらにコフートの問題は、死に対するフロイト的なアンビバレンスを考えるよりは、むしろ健康的な死への適応と、不健康な死への適応ということを考えた。それが彼の言う「宇宙的な自己愛cosmic narcissism」という概念だ。つまり死への恐怖を乗り越え、泰然自若とした境地、という感じだろうか?