2013年6月3日月曜日

ホフマンの死生学(2)


ホフマンによれば、フロイトは死への不安を決して神経症の根幹にかかわる不安としてはとらえず、一種の去勢不安に類似したもの、結局は保護者からの分離への恐れと同等のものとしてとらえたということである。(フロイトは去勢不安のもとをたどると、一種の分離不安である、という説を唱えている。)死への恐れを神経症本来のテーマとしてとらえた森田正馬とはかなり異なる考えであることがわかる。
さてこのホフマンの死生学、実はどんどん難しい議論に入って行く。私はその一部しかわからないが、簡単に言えば抽象的な思考というのは、無限という概念を前提とし、それは同時に死の意味を理解することでもあるという。たとえば「椅子」を個別性のものとしてではなく、一般名詞と考えた場合には、無限にある椅子を前提としている。それにより初めて形の違う椅子を両方とも椅子、と呼ぶことが出来るというわけだ。死という現象も、人間の生が無限に続く時間の中の有限の存在であるという意味を理解するという意味では同じなのだ。その意味では、固有の椅子、固有の生という理解もまた無限という概念とのついで意味を持つという。うーんわからなくなってきたぞ。そうしてさらにメルローポンティの引用により、ますます込み入ってくる。(以下引用はMerleau-Ponty,M. (1964), Sense and Non-Sense, trans. H. L. Dreyfus & p.A. Dreyfus. Evanston, IL: Northwestern University Press.
「死を意識することと考えたり推論をしたりすることは全く同じことだ。というのも生の性質を無視することによってしか、私たちはものを考えることが出来ない。・・・・人間はただ生きるlive のではなく、実存するexist ことによってのみ普遍なものに達しうる。・・・」(p67) 「死とは、与えられたあらゆる特殊な存在の否定であり、死の意識は普遍的なものの意識と同義であるが、しかしそこにとどまる限り、普遍的なものは空虚で抽象的なものにすぎない。実のところ、私たちは存在を地にしてしか(あるいは、サルトルの言い方に従うなら、世界を地にしてしか)無を考えることが出来ないのだ。したがって、私たちの注意を引きつけることを強く望むような死の観念は、すべて欺瞞的であることになる。というのも、その観念は実は密かに私たちの存在の意識を利用しているからである。そうであれば、私たちの死の意識を極限まで徹底させるためには、それを生に移し変え、ヘーゲルが言っているように、死を「内面化 interiorize」しなければならない。初め生に対立していた抽象的普遍を、具体化しなければならない。存在は無に対してのみあるが、しかし無は存在のくぼみにあるだけである(pp.67-68

 どうだ!ちっともわからないぞ。