2013年6月2日日曜日

ホフマンの死生学(1)

今日も東京は朝から悪くない天気だ。梅雨に入ったと覚悟すると、雨が降っていないことを幸運だと感じる。
今日から短いシリーズ。

  ホフマン(Irwin Hoffman)という分析家はかなり緻密な思考をする人である。私は彼の死生学からかなりのものを学んだ。そこで彼の理論を彼の著書Ritual and Spontaneity の第2章を読みつつ考えたい。きっと森田にも役立つはずだ。(ナンの話だ?)
  ホフマンはこの章のはじめに、フロイトが死について論じた個所について,その論理的な矛盾点を指摘している。フロイトは1915年の論文で、「無意識は不死を信じている」と述べている。なぜなら死は決して人が想像できるものではないからだというのだ。しかし「同時に死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている(1914年.ナルシシズム入門) 
人が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはどうしてか?ここら辺がフロイトの議論の中で曖昧な点である、とホフマンは言う。そして結局彼が主張するのは,フロイトの主張は逆であり、無意識に追いやられるのは死すべき運命であるというのだ。しかし精神分析の世界ではこのフロイトの無知とも言える主張が延々と繰り返され,場合によっては死への不安はその他の無意識的な概念を覆い隠しているとさえ主張される傾向にあるのだ。
 フロイトの死の扱いの難しさは、「死の本能」という概念とも関係している。この概念を持ち込むことでフロイトは次の二つを区別することを怠っている、とホフマンは言う。一つは意識を失うことで苦痛を回避したいという願望と、永遠の非存在としての死を十分に理解しつつそれを願望するということである。そう、確かに「苦しいから殺してくれ!」は、死を積極的に望むこととは異なるだろう。またフロイトはオーガスムの頂点で人は「もう死んでもいい!」という状態になるとも言及し、死と快楽を結びつけようとする。これも死を一種の本能と考えたことから来る誤謬であろうとする。
 ポロックという学者は、死は概念化できないというフロイトの学説を引用しつ、そこにあるののは「存在のより早期の状態を特徴づけている絶対的な救いのなさへの恐れ」であるとする。
ウーン。難しくなってきた。