2013年5月2日木曜日

DSM-5とボーダーライン(4)

猪瀬都知事が「今回の件で誰が味方か敵か、よくわかったのは収穫でした」とツイッターで発言したという。これも驚くべき発言である。自分の失言による失点を強気に乗り切るという意図か?内心は相当動揺しているということなのだろう。
ところでなぜ日によって、フォントが異なるのか。それは秘密である。オトナの事情があるのだ。 


BPDは結局診断基準としてはDSM-5でも、本質的には大きく変わらなかったことになる可能性がある。まだ最終案はわからないが。そしてそこにはいろいろ事情があったようだ。一つには次元モデル dimention model BPDには合わなかったという。ほかのPDなら、正常人に見られる性格傾向が極端になったもの、というところがある。たとえば依存性PDとか回避性PDとかがそうだ。だから依存性の軸、回避性の軸、などを考えて、その程度によりPDを診断することになる。次元モデルとは、結局PDとは正常にみられる偏りが大きいものとして理解する。質的には一般人と同じ、ただ程度問題というわけだ。
 しかしBPDはいくつかの異なる性質の混合というところがある。9つの基準の一つ一つを取れば、正常にも見られる傾向だが、それらの取り合わせがBPDを作っている。たとえば内在化傾向(自分を責める傾向)と外在化傾向(他者を責める傾向)を併せ持つ。他者との対立的な感情と、抑うつや不安などの陰性感情が混在する。
 ここら辺 Gunderson DSMBPD概念の生みの親的存在。まだ健在なのか!!)のペーパーを精読しながら書いているが、勉強の意味も含めて、意味不明なところも書いている。私の理論では、BPDは正常人にもその心性が潜んでいる。だからどこかに基礎的なそれ自体は純粋は病理が潜んでいるように思えてならない。これについてGundersonはこんなことも書いている。「ファクター分析の幾つかの研究は、この障害は、単一ファクターモデルで表すことが出来ることを示している。しかしそのコアファクターが何なのかが分かっていない」ナンジャそりゃー。統計の知識がないのが恨めしい。
 とにかく先に進む。PDに関しては、「プロトタイプモデル」に戻してはどうか、という議論があったらしい。このモデルは私もよく知らないが、BPDはこんなものですよ、という簡単な記述をして、あとは臨床家に「確実に当てはまる」「まあまあ当てはまる」「当てはまらないが、ある程度の傾向がある」「全くあてはまらない」のどれかを決めてもらうというものだ。(参考までに言えば、これまでのDSM-III以来の伝統は、9つの項目のうち5つを満たしたらBPDと診断する、という「カテゴリー的な診断」である。)臨床家にとってはこちらが便利だし、一人の患者がいくつものPDを掛け持ちする(重複診断)という問題も軽減されるという。しかしこれだとリサーチ上問題があるし、DSMのほかのカテゴリー的な診断基準とまったく毛色が異なってしまうという問題があり、却下されたという。