2013年5月29日水曜日

精神療法から見た森田療法 (23)


メタレベルに位置する治療者
結局私が柔構造の考えから行き着いたは、面接者は常に高みにいることにより機能が出来るということです。治療的な構造を柔構造として用いるということは、治療構造に対して高みにいることです。いや、このような言い方をすると必ず私のお師匠さんに怒られてしまいます。お師匠さんは、弁証法的な志向が常に患者に対して治療者が高みに立つというニュアンスがあるのが問題だとおっしゃいます。確かにそのようなニュアンスがあるので、私も気をつけたいと思います。高みに立つのではなく、立とうとしている、と言い換えるべきなのでしょう。私はとりあえずここでは「治療者はメタレベルにいる」というような表現をいたしますが、実際にはメタレベルにはもし一瞬到達できたとしてもそこに留まれないのであり、その意味では中立的な治療者、というのと同じニュアンスがあります。厳密な意味での中立性は努力目標、ないし仮想上のものなのです。
 さてどうして治療的柔構造がメタレベルの議論ないしは発想なのかについてもう少し説明します。それは治療者が治療構造という決まりをどのように用いるかを常に考える立場にあるからです。治療時間が終わろうとしている。そのとき大事なことがおきようとしている。それをどのように扱うのか、それを決めるのはそのときの治療者であり、治療構造自体ではありません。治療構造は、原則として治療時間は50分であるという以上のことを伝えてはいないからです。なんとならば、治療者は「50分というのは一つの目安であり、今は緊急事態だからもう少し話を聞こう」となるかもしれないのです。
 このように考えると、治療者は単に精神分析の治療原則に対してメタレベルにいる、というだけではないということがわかります。治療者はそれこそどのような治療手段を用いようか、ということに関してもメタ・レベルにある。治療室に入ってきた患者さんに対して、どのような対処をするのか、どのような治療手段を提供するのか、場合によっては会うことを見合わせるのかということを決めるのは、すべてメタレベルでの決断と言えます。臨床家の在り方は常に構造の上に立って、その構造をどのように扱うかを考える。そしてその構造には治療者としての役割までもが含まれるのです。たとえばたまたま新患としてやってきた人がある事件に関して法廷で争っている当事者であったとしたら、事情を話してお引き取りいただくということもあるでしょう。まああまり起きる可能性のない事態ですが。

このように考えると臨床家の役割とはあらゆる技法や治療を凌駕する形で常に刻一刻と判断を下している存在ということが言えます。そしてそれがその治療者のスキルそのものであるとしたら、実は治療者がどのような学派に属しているかということは非常に大きな影響を及ぼすものの、あまり本質部分ではないということもいえるのです。