2013年5月30日木曜日

精神療法から見た森田療法 (24)

いよいよ梅雨入り。これから数週間が憂鬱である。


いわゆる「汎用性のある精神療法」について
そう、どんな理論を持ってきても、どんな治療技法を持ってきても、実際に患者を前にした臨床家はメタレベルに位置している。だから患者を扱えることが出来る。これがロボットと最も異なる点です。たとえば認知療法を受けに行くと、認知療法ロボットが対応します。しかし患者が「やはり認知療法には抵抗があるんですが、考え直していいですか?」と言えば、ロボットは「それではまた受付ロボットのところに戻ってください。さようなら。」となるでしょう。でも人間の治療者なら、「認知療法には抵抗があるんですね。その抵抗についてちょっと聞かせてくれませんか?」となるでしょうし、その時の治療者は認知療法より上のメタレベルに立っている。「いきなり認知療法と言ってもねえ。抵抗あるよね。誰かから認知療法は良いよ、という話を聞いたの?」となるわけですから。
この臨床場面では学派がなくなる、という現象。面白いと思いますが、私はここでそれをやはり方法論的に洗練されたものにしたいと思います。それはいわば「汎用性のある精神療法」というべきものです。これはあらゆる精神療法的なアプローチの上に立った精神療法ということです。「そんなことできないよ。スーパーマンじゃあるまいし」と言われるかもしれませんが、私の考えは逆です。実はある程度経験ある治療者は皆やっていることなのです。「~療法家」としてふるまう以前に。たとえば森田療法家でも、精神分析家でも、初めて会う患者さんに対してはこれをやっている。あるいは毎日の精神療法プロセスにおいてもこれを行っている可能性があります。さらには「~療法」をやりながら同時にこれを行っている可能性がある。例えば精神分析的な治療を行っている治療者は、「この人にこの分析的な介入はするべきではないな」と思ってそれを控えたとしたら、精神分析と同時にメタレベルの治療、すなわち「汎用性のある精神療法」を行っているということになります。図式に描いてみると、汎用性のある精神療法が土台にあり、その上に「~療法」が載っているという感じでしょうか。わざわざ図に表すほどのことは全然ないのですが。この図で、汎用性のある精神療法の後に「姿勢」とかっこに入れてありますが、これは後で説明します。しかし森田療法をいろいろ検討して、結局これは「姿勢」であるとわかった時の、あの姿勢、という意味です。