2013年5月28日火曜日

精神療法から見た森田療法 (22)

ちなみに治療構造とは、精神療法がおこなわれる際の頻度や回数、料金、時間設定、オフィスの場所やオフィス内の家具の配置などの外的な条件と、そこでの治療者の態度や治療上のルール、習慣や不文律などの内的な条件を総合してそう呼ぶわけです。故小此木啓吾先生が中心になってこの概念が整備されました。本来は精神分析的な精神療法についての言葉だったのですが、もちろんそれ以外のあらゆる療法についても治療構造は存在することになります。たとえば入院森田療法には、一週間の絶対臥褥期、それに続く軽作業期などがありますが、これがそれに相当するでしょう。あとはそのような治療構造をそのような概念として意識化し、治療的に扱い、その維持が重要であるという議論をそれぞれの療法において行うかどうかという違いがあります。
それでは「柔構造」とは何かといえば、日本家屋の構造にみられるように、それ全体がしなり、変形することで外的な力に対して弾力性を示しつつ、その形を保っている構造です。日本建築、特に五重塔などは度重なる震災にも耐えてその形を保っています。それが鉄とコンクリートでできた「剛構造」としての西洋建築と対比されて論じられてきたということがあります。(ちなみに柔構造も、剛構造も、日本語の概念です。)この柔構造という概念を、先ほど述べた治療構造と重ね合わせて論じたのが、「治療的柔構造」の概念です。
 この柔構造を治療構造として考えるということは、言葉を換えればその治療構造を保っている治療者が柔軟性を示しつつ治療を行うということです。たとえば自己開示については、患者の側から治療者のことを知りたいというメッセージが送られてきた際、治療者はそれを厳しく拒絶するでもなく、無制限に伝えるでもなく、心の天秤のバランスを取りつつ対処するということです。心の天秤などという比喩もここに出しましたが、治療構造とは治療者と患者のどちらからも、それを保持したいという願望と、それを破りたいという願望が常にあり、それにバランスを取るところに治療の妙が生じます。
治療構造について私は時々次のような過激なことを言います。「治療構造は、破られてナンボなのだ。」その真意は次のようなものです。治療構造の中で、それを押してみるとぐらぐらしたり、それが一部壊れるということを知って、私たちはそれを扱うことができるようになる。その意味ではちょっとこわしてみる、破ってみるということが許されない治療構造は人間の生活の中であまり意味を持たないことになります。あるいは少なくとも治療的には扱いにくい。
たとえば「赤信号はわたってはいけない」を私は常に絶対に守っているわけではありません。どんなに狭い道につけられた信号でも、車が全然来ていなくても渡らなかったのは、小学校低学年の頃だけです。それ以後は青の点滅でも無理に渡ってみたり、赤信号を無視してタクシーにクラクションを鳴らされたりほかの歩行者から白い目で見られたりしながら、私の中での「赤信号はわたっていけない」が独自の意味を伴って内在化されていきます。もし「赤信号はわたってはいけない」という構造が絶対に破られることがないという「剛構造」であり、たとえば赤信号の間は横断舗道が自動的に遮断されて渡れないという装置が至る所にあるとしたら、赤信号の存在の意味すら分からず、それこそ停電で信号がつかなくなってしまった時の振る舞いが分からなくなってしまいます。(あまりいい例とは言えないなあ。)
治療関係においては、50分で済ますところの面接が12分伸びて、それが許されるということがあって、はじめ50分の意味が内在化されるということがある。剛構造であってはならないのです。