2013年5月27日月曜日

精神療法から見た森田療法 (21)


基本原則とは、「~を守るべし」という掟のようなものです。掟が常に守られるべきとは限らない。例外もあるでしょう。しかし精神分析的な治療原則が守られるべきではないというケースがあまりにも多いのです。というより掟を守るべきかかもらないべきかという判断が、臨床的に非常に重要になるのが、精神療法の世界なのです。こんな掟ってあっていいのでしょうか?
私がこれまで多く論じてきた自己開示ということを例にとってみます。治療者は匿名性を守り、自己開示をするべきではないというのがフロイトの教えです。ただし自己開示が全く禁止されるとしたら、治療者は自分がどのようなトレーニングを受けたのか、どのような治療方針を持っているかということまで伝えるべきではないということになります。しかし現在では精神分析を含むあらゆる療法でインフォームドコンセントが叫ばれ、治療者がどのようなトレーニングを受け、どのような治療方針を持っているかを患者にあらかじめ伝えることが半ば義務化されつつあります。また少し考えるとわかることですが、治療者が患者と会う際に自分の情報について意図せずに伝わってしまうことはたくさんあります。
 すると匿名性を守るとすれば、インフォームドコンセントに従って伝えるべきことを伝えないだけでなく、この自然に伝わってしまう情報までことさら隠さなくてはならなくなります。すると治療者は自分のオフィスの本棚に並んでいる書籍すらも隠さなくてはならなくなりますが、それは非常に不自然であるだけでなく、治療的な意味があるかも非常に疑問です。
匿名性の問題が重要なのは、治療者が自分の情報を患者に伝えないことが重要なのではなく、何を伝えるか(何が伝わるか)、何を伝えないか(何が伝わらないか)を治療場面において十分に配慮するべきかという一点に尽きます。ある非常に重要な治療の局面で、治療者が自分の感情を伝えることも、伝えないことも、状況によっては非常に大きな意味を持つのですから。そして同様の問題は、禁欲原則についても、受け身性にも言えるのです。精神分析が教えてくれるのは、「精神分析的な治療原則を守ることが精神分析である」ではなく、治療原則はことごとく相対的なものであり、治療者がそれぞれの治療場面で判断すべきである、ということです。
治療的柔構造の概念

これらの考えから私が提唱をし始めたのが、治療的柔構造の概念です。これは大野裕先生が最初に言及した概念で、それを基にして私も「治療的柔構造」(岩崎学術出版社)という本を書いたことがありますこれはどのようなことかというと、治療構造、すなわち治療の枠組みというのはおよそどのような治療手段においても存在し、かつ重要なものですが、それが真に治療的に意味を持つためには、それが「柔構造」でなくてはならないということです。