2013年5月26日日曜日

精神療法から見た森田療法 (20)


治療原則への疑問 (すべての治療原則は相対的)
私が特に精神分析理論の中でフロイトが治療原則として掲げた匿名性、禁欲原則、受身性に疑問を持ったことはすでに述べました。私のこの疑問はある意味では非常に単純でわかりやすいことです。それをなるべくわかりやすく言おうと思います。
少なくともフロイトが掲げた精神分析の理論によれば、治療は治療者が受け身的に患者の話を聞き、自分の情報を伝えたり、余計なアドバイスをしたりせず、結果的にある種のフラストレーションを与えつつ、それを梃子のように用いて治療を進めて行くというところがあります。分析系の治療者は多かれ少なかれ、沈黙を守るというスタンスを取り、患者は最初はそれを意外に感じ、治療者とのその様な関係を一種独特なものと感じつつ受け入れ、独特の分析的な治療関係が展開するのです。
 これはメソッドとしては理にかなったものですが、これにより治療が進展する場合と、そうでない場合があるという事実があります。例えば治療者がアドバイスもせずに黙って話を聞いているというスタンスで、自分のファンタジーを話すことが促進される患者さんと、逆に「どうしてお金を払っているのに、治療者は何も言ってくれないんですか?」と怒りだす患者さんがいます。それほどに患者さんのニーズはバラバラで、臨床とはそういうものです。
 従来の精神分析家たちは「いや、黙って話を聞き、患者の無意識レベルで起きていることにコメントをすることが正しいやり方だ」とそのやり方を貫いて来たわけですが、近年ではそうもできない事情が生じてきたわけです。それはそのような治療方針を十分説明されないことに不満を持ったり、説明されたとしても納得しない患者さんの声を無視できなくなってきたからです。というのも昔はそれこそ精神科の薬もなく、精神分析のやり方で患者さんの話を聞くというのが唯一の治療手段というニュアンスがあったわけですが、現代では薬物療法のほかにも様々な種類の治療法が提唱され、精神分析もそれらの沢山の治療手段の一つにすぎなくなってしまったという事情があるからです。患者さんたちは精神分析よりも受けていて治療されているという実感が持てたり、ある種の安らぎを感じる治療法があるならば、そちらに移ってしまうでしょう。それに現代の風潮としては、十分な説明を受けた上で治療を承諾するというインフォームドコンセントという考えは、かなり一般の人々に浸透しているのです。
 ここでどうして精神分析的なアプローチの意義について説明されることが少ないかといえば、そうすることが既に精神分析的な受身性を逸脱してしまうという考え方をする分析家が多いからです。それにそうすることが患者さんに余計なバイアスを与えることになり、治療者の手の内を見せるという意味では匿名性の原則も侵食してしまうという考え方もあるでしょう。あるいは「説明して欲しい」という患者の願望さえも禁欲原則の対象として考える、という傾向もあります。とにかく患者さんにはくだくだしく治療について説明するのではなく、まず体験してもらう、という考え方が精神分析の世界では支配的だったのです。
 私が精神分析のトレーニングを受けながら感じたのは、これらの精神分析的な原則に固執することは、そのようなメソッドに上手く乗れる人にはいいのですが、そうでない場合には逆効果になるであろう、ということでした。匿名性にしても受け身性にしても、必要に応じてそれを緩める、あるいはそれと正反対の事をする必要もる。しかしそうすると、一体精神分析における基本原則とは何か、ということが問題になって来るのです。