2013年5月8日水曜日

精神療法から見た森田療法 (1)


 「精神療法から見た森田療法」ってどうするんだろう? 唐突じゃないか? 何も出てこないよ。でもこれについて考えをまとめないと何となく人に迷惑がかかる事情がある。オトナの事情だ。しかしよりによって……。例の「精神分析と家族療法」よりもっとムチャブリだと思うのだが・・・・。
 実は話を持っていきたい方向はあるが、どのように繋げるかが問題だ。そこでウォーミングアップとして論文を読んでみる。森田療法と言えば押しも押されもせぬリーダー中村敬先生である。
 
 と、ここで方針を変えることにした。私が持っていきたい方法とは何か?これを最初に探ってみよう。まだ自分でもはっきりとは見えていないが。
 私が最近考えているのは、諦念、受け入れ、受容といったことに近い。もちろん受容という問題はおよそあらゆる文脈で扱われるわけだが、それでも自分の中にこのテーマに関する新しさを覚える。このテーマは例えば、対人関係においてみると説明しやすいかもしれない。人と知り合い、親しくなる。でもその関係は、将来必ず終わるのだ。親しみということが実は幻の上に成り立っている。夢の世界と言ってもいいかもしれない。もちろんそれは楽しいし学ぶことも多い。そこで生きがいも感じるだろう。でもそれが深まり、進行していけば必ず終わる運命にある。
 もちろん永続的な関係のようなものは体験される。「彼とは小学校時代からずっと友達だ」、ということもあるだろう。でもそれはまだ終わっていないだけなのだ。まだ終わらないうちに、どちらかが死ねば、「一生いい友達だった」となる。あるいは友人関係が一定以上の反応を起こさないように、そう、制御棒が入ったままで凍結されている感じ。夫婦の間だって、制御棒が入りっぱなしで維持されていたりするのだ。それはそれで幸せなことかもしれない。
 「永続的な関係がない」という言い方が極端なら、それは「例外的に起きる」、くらいにしてもいい。いきなりトーンダウンだな。それでも関係はいずれは終わるという前提を常に持つべきだと思う。永続的な関係が真の関係、本来の関係であると信じることからくる弊害の方がはるかに大きいからである。およそあらゆる対人関係上の問題は、その関係がかりそめのもので、やがては終わるという現実を受け入れていないことから起きるように思えてならない。それはお互いに不幸なことであろうと思う。それよりは、対人関係は必ず終わるという前提で楽しむ方が精神衛生上いいような気がする。
 必ず終わる、という言い方が誤解を招くとしたら、二人はいずれ離れていく、という言い方にしようか。まだこだわっているな。
 実は同じことは自分自身の「生」についても、心についても、身体についてもいえる。やがて必ず滅びる。それを前提にしないことが様々な不幸を生む。
 
実はこの数週間バイジーさんと翻訳を進めている分析家Irwin Hoffman がそんな事ばかり書いている。というよりHoffmanがこの問題を扱った章に、今かかりっきりになっている。ある意味では死生観を根底から揺さぶるような理論が展開されている。そしてその視点から彼は治療を論じている。
 森田の「あるがまま」にはそれと近い匂いを感じる。病気をよくするとか、関係を改善するとかは、すべて幻の世界、夢の世界での話である。夢の世界は終わりを前提としない。そのまま続いていくのだ。強引に何らかの力で覚まされない限り。そこで患者も治療者ももがき、苦しむ。その時森田の声はどこか違う方向から聞こえてくるようだ。それは彼が病苦の苦しみを経て到達した現実のとらえ方に基づく教えかも知れない。
 森田の理論は欧米でも評価が高いが、同様の理論は昨今の「マインドフルネス」の文脈にも通じる。多くの理論化が同様のことを言っている。しかし言い尽くされることはないし、人は本当に理解することがない。生きることは捉われで、それから抜け出すことが出来ないからである。