2013年5月9日木曜日

精神療法から見た森田療法 (2)


森田のほうに話題が行きそうになるのをもう少し抑えて・・・・・。
 関係性の終わりが最も耐え難いのは、親子の間柄かもしれない。あれだけ密な時間を過ごした親子が分かれていく。他人同士になるのだ。親のほうに特に子離れが難しい。すでに私はどこかにも書いているが、特に母親にとって、多くの場合子供は永遠に片思いの対象である。自分にとってかけがえのない特別な存在。どんなに子供が成長し、年を重ねても「かわいい~チャン」のままで目に映る。親元を離れても、遠くからいつも眺め、心配し、考えている。あれほど無力で何もできない存在からあれだけ自分が手をかけて育て上げた子供。特に要求はしなくても感謝くらいはしてもらってもおかしくないはずだ。ところが運が悪ければ子供は自分を憎み、一刻も早く自分のもとを去っていこうとする。時には「私はお母さん(お父さんでもいい)に一生を台無しにされた」とまで言い募る。お互いにもう顔を合わせないことが最善の選択肢だったりする。実際世の中の親子関係の中には、お互いを他人として眺めるようになることがもっとも望ましいという場合が少なくない。それも今後永久に。
 そうなったときに当然あせるのは親のほうだ。「何がいけなかったのだろう?」「あの子は何を誤解しているのだろうか?」そして和解の手立てを探して悪戦苦闘する。ところがそれを求めないことが最大限の親の愛情表現だ、などとカウンセラーや精神科医に言われて愕然としたりする。「子は天からの授かりもの」という言葉を思い出して、あの子は今までは預からせてもらったのだ、と思うしかない。
 親としては子に愛情を注ぐのが仕事のようなものだ。そしてその気持ちは子供が成長したからといって急に止まるわけではない。それに子供の方も孝行息子(娘)だったりすると「やはり親子の絆は永遠だ。これこそが本来の姿だ。」などと親は考える。普通子供は徐々に疎遠になり、自分の家庭を守ることに忙しくなるが、たまに親の顔を見に里帰りをするだろう。そのうち親も歳を取り、衰え、最期を迎える。こうして親子の仲は特に大きな波乱を経ることなく、最後まで続く。死が両者を隔てただけだ。そのどこがいけないのか。
 このように考えると、人間はいやおうなしに二つの極に引き裂かれた存在だということが分かる。一つは関係性は永遠に続く、という幻の世界であり、もう一つは関係性は終わるという現実である。どちらにも引っ張られる根拠がある。関係性が永遠に続くという幻想は、時には親子が共有したいものだからだ。しかし関係性は終わるという現実は、深刻な意見の対立や口論の中にすら垣間見られることがある。もう二度と口をききたくない、縁を切りたいという、積極的に関係を終わらせたいという衝動として一瞬ではあれ体験されるかもしれない。そして子供が親から離れようと死に物狂いの努力をする際は、事態はさらに深刻なものにならざるを得ない。そして親は思うのである。「今までこどもと過ごした月日は一体なんだったんだろう?」