2013年4月27日土曜日

DSM-5と解離性障害(24)

GWの始まり。2年前は神さんと被災地をまわったことを思い出す。

 ブログの解離編はもういよいよ大詰めである。もう24日も続けているのだ。最後はこのVDHさんの論文の討論部分 discussion を紹介することで締めたい。
 私の印象では、この論文は解離の病理について最も深く考えを至らせ、また最も精力的にその概念の重要性を主張する人々の代表格であるVDHさんの主張を端的に示している。旗幟鮮明でわかりやすい、ということだ。私は基本的には全面的に彼の主張に賛成であるが、これは一種の「汎解離理論」にもつながりかねない為に、一般の臨床家の支持を得られるのは難しいとも考えている。
 VDH先生の主張は、簡単に言えば、「PTSDとは結局は解離の病理である。『解離タイプ』のPTSDというのはその意味ではその事実を却って曖昧にする」ということになる。「ゼロ増五減」は不十分であるから、自民党案には反対であるという民主党の主張と似ているな。いや、関係ないか?
 ではどうしてフラッシュバックに見られるような侵入体験とか過覚醒症状などが解離性の症状と考えられない傾向にあるのか?それはトラウマに関連した解離は、第一義的に防衛とみなされるからではないか、という仮説をVDHさんは論じている。この主張、私はいまいちわからないが、VDHさんはとにかくそうおっしゃるのだ。そのうえで彼が言うには、「しかし解離は何度も言うように、統合の失敗の結果として自動的に生じてくるものなのだ。」そして「防衛としての解離はそれが成功している部分と失敗している部分の両方を含む」という。それはそうだろう。例えば解離性の健忘とは、一定の記憶から遠ざかることで日常生活をやり過ごすことが出来るという部分と、記憶がないことによる不便さの両方を有するからだ。ただし精神分析の立場から言えば、防衛とはことごとく「半ば失敗した適応」であることも確かであるが。
 さらにVDHさんはこう主張する。「そもそも『解離タイプ』のPTSDとは、Complex PTSD(複合型PTSD)の事だ、という。あー、そうキタか。VDHさんもDSM-III以来亡霊のように出ては消えているCPTSDの概念の支持者だったのである。
 解離性障害の論者たちは一貫して、広い意味でのトラウマ概念に貫かれた疾病概念を求めているという気がする。DSM-5で「ストレス、トラウマ関連障害」という大きなくくりが出来ることは素晴らしいが、その中に解離性障害が入らないことについての不満を持ち続けている訳である。
 ただし『解離タイプ』のPTSDの分類が重要なのは、それが従来の暴露型の治療以外の治療方針を要請するからだともいう。そこで彼らが提唱するのが、段階ごとの治療phase-oriented treatment というわけだが、これは「構造的解離理論」(星和書店)にその治療の骨子が描かれている。