2013年4月17日水曜日

DSM-5と解離性障害(14)

 されこれらの議論から、世界全体に存在するDIDの分類に関して、ひとつの重要な示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという考えである。そして両者は排他的ではない。つまり私たちが「通常」のDIDと理解している「非・憑依タイプ」のDIDでも憑依体験を体験することは多い。かのRoss先生はある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、憑依された、という感覚を訴えたという。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは何か?それは社会文化的環境であるという。憑依タイプのDIDが見られるのは、アメリカではある種の原理主義的な宗教の信者、ないしは南アジアの文化などであるという。そこでは憑依をしてくるものは「現実」のものとして体験されることになる。
 ここで特に憑依体験には、宗教体験が関係していることは確かである。ある宗派では、正常な状態での憑依体験を重視しているからだ。そうなると憑依型のDIDの割合も当然高くなる。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとして選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)であるという。
  さて筆者のSpiegel 医師は、ここで大切なことを述べている。憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実であるということではないということである。それは非・憑依タイプに老いて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
   さてここでひとつ私のコメントを。当たり前の話であるが、憑依という現象が社会に伝えられ、何か精神的な異常が生じるたびに昔の日本のように「狐が憑いたのではないか?」と考える風習がある社会では、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。これって当たり前のことではないか、とつい思ってしまう。しかしかといってそのような風習にさらされていなくても憑依が起きるということはあることを私は知っている。ある患者さんは信心深いということは特になかったが、ある悩みを抱えて相談した人に「神が憑いている」といわれたことからそれを実感するようになったという。別の方はDIDの発症が、あたかも体の後ろから誰かに侵入された、と感じたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。