2013年4月8日月曜日

認知療法との対話―改訂版(1) 



今のところは原稿用紙25枚程度のこの文章を、三分の一程度にしなくてはならない。なぜか今月末までに。今日は前半部分をできるだけそぎ落とす。

私は基本的には包括的な考えを好む。そこで認知療法も精神分析とは十分異質であるという意味ではほってはおけない存在なのだ。私は認知療法と銘打ってセッションを行うことは、日常の臨床では原則としてないが、通常の「面談」の中でそれを行っていると感じることがある。私は患者の心の動きを一コマ一コマ一緒に追うことにも治療の醍醐味を覚える。「そこでそういわれた時、どう感じたんですか?」「その時相手は微妙な反応をしたのですね。なぜだと思いますか。」「どうしてその時~とは考えなかったのですか。」という問いかけが通常の治療プロセスで多く登場する。詳細を知って「ほぅ、そこで相手からそんな反応が返ってきたんですか?」と驚き、考え込んでしまうことも少なくない。そこもまた面白い。
患者の話を聞きとることで彼らの思考や行動に一定の繰り返し、パターンが存在することに気が付く、あるいはそれを指摘するということがある。「ここでいつもこう感じてしまうんですね。」「ここでいつもこう考えるんですね。」これは患者さんとの話が生み出す成果の一つといえるだろう。繰り返しやパターンは、患者の側からは見えない、あるいは異なった見え方をしている可能性がある。そのせいもあって繰り返してしまう。だから治療者というある程度客観的な立場の存在に意味があるのである。
さて、これは認知的なプロセスのだろうか?私はそう思う。しかしもしそうだったら、私は認知療法をずっとやってきたことになる。でもそれならどうして私は認知療法に多少なりとも抵抗を持つのだろうか?

「面談」はすべてを含みこんでいる

あまり問われていないが重要な問題がある。精神科医が行う「面談」とはいったいなんだろう? 医者が患者さんとあいさつを交わし「最近どうですか?」などと問う。患者はその時頭に浮かんだこと、あるいは用意しきてきたテーマについて話す。ある時は近況報告、ある時は愚痴、ある時は質問。場合によってはそれが3分だったり、10分だったりする。これほど毎回行われる「面談」のテキストなど聴いたことがない。なぜだろう?
「面談」の特徴は、基本的には無構造(ないしは非常に「柔構造的」)なことだろう。あるいは「本題」に入る前の、治療とはカウントされない雑談という扱い方をされるかもしれない。二人の人間が出会い、医師側が患者さんの様子をうかがう。何が起きるにしてもそれからだ。そしてここには認知的なプロセスも、それ以外の様々なコミュニケーションも生じているのだ。相手の表情を読む。精神的、身体的な状況を把握する。安心感をお互いに与え合う。感情を読みあう・・・・。「面談」が無構造的にならざるを得ないのは、そしてそのテキストを書くことができないのは、そこで起きることがあまりにも多様で重層的だからだろう。しかしこれがないことには決して「本題」には入れない。そしてさまざまな出来事がこの「面談」の中では起きうるのだ。「話し始めてすぐ、この先生とはやっていけることがわかりました」あるいは「最初から先生の態度が気になりました。」という事が起きる。たかが面談、されど面談。このレベルで失敗すると「あの医者のところには二度と行かない」となるのである。
実は私はあまたある「~療法」と呼ばれるものの素地は、ことごとく「面談」の中に見つけられるものと主張している。人間はそんな特別な療法など発見できないものだ。だから私は認知療法にしても精神分析にしても、あたかも「面談」に含まれないような、まったく独立した画期的な治療法だというニュアンスがあるとしたら、それには不満なのである。
私は認知療法は「面談」の中でも、日常生活に現われるような認知的なプロセスを拡大したものだとしてとらえる。前回の面談以降に生活状況で生じた問題とすべき認知プロセスについて確認しあい、宿題をチェックし、アジェンダを決める。毎回うつ病のスケールなどに書き入れてもらう。それはあたかも「面談」で生じるプロセスの一つについて拡大して扱う、というところがある。それだけに特化してやりましょう、ということだ。
私はこのやり方にはこれが効果的な部分と、あまりそうではない部分があるように思う。その効果的な面としては、無構造でだらだらした、治療的な意味を持たない「面談」を最小限に済ます効果があるだろう。またノートを持参して一週間の振り返りをするのが好きな患者さんもいるだろう。
では逆効果な面はどうか? 治療者が認知療法しかできず、あるいはそれ以外をする気がなく、それを患者に押し付ける場合。認知療法家としての資格を取って、あるいはその資格を取る途中でケースを必要としている場合。患者さんを説得してこれを行う。これは最悪である。でももちろんそれは認知療法についてのみいえることではない。
これはEMDRにもTFTにも言えることだろうが、治療状況によっては実際の手技を行っている時間が短くなってしまい、形ばかりのようになってしまうこともあると聞く。これらの療法の際も最初には挨拶程度の「面談」がつき物だろうが、患者の身に大きな出来事があったなら、それを話す患者を制止して、「それではEMDRを始めましょう」とはならないはずである。配偶者が家を出てしまって落ち込んでいる患者の話を聞いているうちに、EMDRを行う時間がなくなることがあって、それでいいのだ。そのように考えたら、結局「面談」を主体にして、それに認知療法やEMDRなどを適宜はめ込んでいく、という考え方のほうが無難ではないだろうか?私は認知療法の大家である大野裕先生と対談した際に、この件を先生に確かめて安心したという経緯がある。
ということは認知療法と銘打って行うセッションは、さまざまな媒介物を使った結局パターン認識のプロセスを、必要に応じて行う、ということになる。ここで問題は、療法家がそうなるためには、認知療法をフォーマルに用いる必要があるのか、という問題だ。

この話に入る前に、先ほど「~療法」の要素はすべて「面談」にある、と述べたことについて、それには例外がある点を論じておきたい。それは「~療法」としてのトレーニングを行う際に習得したテクニックが、普通の「面談」を続けていただけでは習得しえない、あるいは思いつかないということもある場合だ。たとえばEMDRを面談に組み込むとしても、そのトレーニングを経ていないとしたら、それを臨機応変に面談の中で用いることはできない。(「EMDRにはそれなりのしっかりとしたフォーマルなセッションが必要である」、という方には、この私の話はそれだけでもとんでもないことになるだろうが。)
 同様のことはリラクセーションや催眠などについてもいえる。ある種の専門的なトレーニングが、それを面談に応用するためには必要な場合もある、ということを私は言いたいのだ。それでは、認知療法も、同様なのだろうか? これについては、イエスアンドノーというのが私の立場だ。レジデント時代に通年の認知療法の講義を受けたというだけでほとんど認知療法の実地のない私が言うのも説得力がないかもしれないが、以下にそう述べる理由を書いてみよう。