2013年3月16日土曜日

認知療法との対話(5)

 ということで認知療法をフォーマルに行なう訓練を行うことで、日常の「面談」を豊かにする可能性について考える。
 昨日のブログで書いたように、私の理解する認知療法は患者との「パターン」の探求である。それは認知、行動、感情が複合した形で見られるある種のパターンを見出し、解決法を模索するわけである。認知療法と銘打つからには、それに特化した治療を行うことになる。しかしこれはかなりきついプロセスでもある。
 たとえば昨日のブログで示した「人に問題を指摘されると、すぐ逆ギレしてしまう。」というパターンを有する人について。これを毎回扱うのがいかにシンドいかは、ちょっと想像すれば明らかだ。人から注意されるだけで逆上するという体験は、患者にとってはあまり思い出したくない恥ずかしい、情けない体験だろう。仔細に振り返って反省をするといっても限度がある。さらにはその反省のプロセス全体が、「ダメ出し」というニュアンスを含む。よほどエネルギーや治療意欲がない限りは、毎回のセッションの多くの時間をこれに費やすのは相当つらいだろう。
 私はこのプロセスが不可能と言っているのではない。たとえばPTSDの治療の一つである暴露療法では、毎回トラウマの状況を疑似体験して慣れていくというかなり過酷な治療が行なわれるが、その有効性が確かめられている。そしてそれを率先して希望する患者さんもいる。ただしその数はかなり限られてくる。認知療法も同じである。中には最初は認知療法を望んでも、始めてみるとそれが自分が求めていたものと違うと感じ、来なくなってしまったり、方向転換を望んだりする人もいる。そして多くの患者さんはむしろ癒しを求めて、「それでいいんですよ」という肯定の言葉を求めて治療者のもとに通うのである。
 結局治療者はそのような患者さんのニーズに柔軟に対応しなくてはならない。認知療法的プロセスが有効な大部分の患者さんに対しても、結局時々そのような認知療法的な試みを適宜組み込んだ一般的な「面談」というところに落ち着く。
 こう考えるとフォーマルな認知療法を行うという経験を持つことは、いざとなったらそれに移行したり、その専門家を紹介するという用意を持ちながら「面談」を行うということを意味する。ケースによっては自分の持っている問題あるパターンの本質を的確に捉えた、能率を重視した治療を望むかもしれないのだ。その人にとっては「面談」は非能率的で、目的意識が乏しく、時間の無駄のように感じるかもしれないだろう。その時に認知療法に特化した方針に入って行けばいい。
 認知療法を行う経験を持つことで改めて知るもう一つのことは、宿題を提供したり、ノートを用いたりすることの意味である。私の患者さんで、ノート持参の方は結構多い。彼らはそこに書かれた内容を読み上げたり、面談の内容を書き付けたりする。精神分析療法では、それらのことはご法度だ。治療場面で起きた生の体験を言葉で伝え合うことの意義が強調される。書かれた内容を読み上げるのは、治療画面のライブ感を損なうものだ。「第一、二者間の真剣な関係が成立しているとき、そこにノートなど介在しないはずだ。」と言われそうだ。確かに彼女との真剣交際の最中にノートは開かないかもしれない。でも精神分析は何でも物事をシリアスに捉えすぎなのだ。宿題や目に見える構造があるほうが治療に専念しやすいという人もいるではないか。とにかくひとそれぞれなのだ。