2013年3月15日金曜日

認知療法との対話(4)


ちなみに私の認知療法のトレーニングは中途半端で誠に不十分である。米国のメニンガー・クリニックでレジデントをしていた際に、一年間、通年で毎週認知療法の講義を受けた。認知療法の気鋭の講師がカンサスシティーから赴いて、ケース検討やビデオ鑑賞などによる本格的な講義をしてくれた。しかしフォーマルな形で認知療法のケースを持ち、スーパービジョンをしてもらったということはない。
ただしアーロン・ベックが精神分析のトレーニングを離れて認知療法を立ち上げた経緯はとても共感できる。それは患者さんの人生で繰り返されるある種の不適応的な思考パターンを、たとえそれが意識的な思考という表層的レベルについての内容であっても、患者とともに具体的に考えていこうという立場だ。精神分析が全盛の当時の風土では、扱う内容が表面的であるということはその治療効果はあっても一時的であり、問題の本質的な解決ではないとみなされることを意味する。この新しい心理療法を提唱し始めた時は、分析家たちからの風当たりも相当強かったであろう。しかしベックはそれでも患者にとっても分かりやすい、目に見える治療法を選んだということになる。
さて私は認知療法プロパーをやらない(やれない)ながらも、認知療法的なアプローチを取り入れている、あるいは既にやっていると実感することがある。それは患者の持っているある種のパターンを理解し、できればそれを変えていこうという方針に従っている時だ。ただし患者の持つパターンは決して認知ばかりではなく、そこには感情も行動も合わさっているのが普通である。そのせいでことさら「認知」療法的な手法を用いている、と実感することもない。
例えばある患者が、「人に問題を指摘されると、すぐ逆ギレしてしまう。」というパターンを持っているとする(私の創作である)。これを患者と分析するとしよう。その逆切れの際の心の動きを患者と一緒に追ってみる。「あなたの仕事のここが間違っていましたよ。」と言われた患者は「ああ、またやっちゃった。やっぱり私はダメなんだ。」「この上司は私が本当はダメ人間だということを見抜いたのかもしれない。」「それにしてもどうしてこんな小さなことにケチをつけるんだろう?」「私が普通は99%はちゃんと仕事をしているということがわかってくれないのだろうか?」「そういえばこの上司は私の仕事を評価してくれたことはない。」「この上司はきっと私を軽蔑しているんだ」「一度上司にはっきり私の考えを言おう。」・・・・。こうして患者はある日かなりの剣幕で上司に「もうやってられません。あなたを信頼していたのに…」と感情をぶちまけることになる。そしてその後、「アーまたやっちゃった…」となる。
このパターンのどこで自分をストップさせることが出来るのだろう、と考えること、職場で一週間のうちに同様の事が起きそうにならなかったかをセッションで話し合うことが実際の認知療法のセッションでは行われるのだが、これはもはや思考の分析にとどまらないことは当然である。(もちろんある程度経験ある認知療法家はそんなことを百も承知である。)
さて以上のパターン分析をするのに、認知療法のトレーニングが必要か。うーん、ビミョーである。例えば同じようなことを、精神分析的精神療法で行わないこともないわけだ。それを転移の文脈から「あなたは私の間でも、その逆ギレを起こしそうになっているんだね。そこのところを一緒に考えて見ようか。」となったら、これは立派な分析的なセッション出し、そんな感じで分析のセッションが流れていくこともあるだろう。認知療法のトレーニングを経ることで、例えば12種類の自動思考をマスターしたところで、それをすごく重宝しているかといえばそうでもないだろう。結局これらの12の自動思考は、分析でいうスプリッティングをいろいろ言葉を変えて行っているだけじゃないの、と言われてしまいそうだ。
以下に参考までに。カッコの中は、私が勝手に和訳したものである。




しかしまてよ。このままだと、認知療法においても、「面談」の域を出ないという方向に議論が向かっているぞ。これでは困る。少し軌道修正をしなくてはならない。